冨士蓉子

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冨士蓉子

 人物

 冨士ふじ 蓉子ようこ

 ・本 名 
 ・生没年 大正6年/1917年~昭和50年代/1976年以降
 ・出身地 東京

 

 来歴

 「東京のミスワカナ」と称される程の腕を持った天才的な漫才師だったそうであるが、詳しい様子が今ひとつ解らない漠然とした存在である。レコードの数は多く、人気を偲ぶことは出来るが、その素顔はベールに包まれているというべきか。

 ・漫才前後

 冨士蓉子は興行師の父、安来節の名手、浜田梅吉を両親にもち、三歳から芸事を仕込まれた根っからの芸人であった。しかし、浜田梅吉は実の親ではなかったそうで、「東京漫才のすべて」の中に収録されたコロムビア・トップとの対談の中で、   

 蓉 子 私は役者の子でしたから、浜田梅吉は育ててもらった親なんです。私、貰われっ子なんです。   
 トップ ああそうですか……。そうしますと、本当の、本当の親っていっちゃ失礼ですけど、生みの親の親御さんは……。
 蓉 子 ええ、曾我廼家にいました。
 トップ ハハァ……曾我廼家っていうと五郎さん、五一郎……。
 蓉 子 そうです。五一郎さんの方。   
 トップ 五一郎さんの方……ああ、そうですか。   
 蓉 子 五一郎さんの台本の書き下ろししてまして、で、舞台で喜劇をやりながら、都々逸を出したり、歌を出したりしたのが、元祖なんです。  

「東京漫才のすべて」より「華やかなる昭和ひと桁」

 と、証言している。冨士蓉子が初舞台を踏んだ頃は、正に安来節の全盛期で浅草一帯を中心に、空前絶後のブームが巻き起こっていた。なお、上方から漫才(当時は萬歳)が安来節一座に潜り込んで、やって来たのも、ちょうどこの頃であった。  

 この対談の中で、冨士蓉子は、実父の名を明らかにしていないが、小島貞二の「東京漫才のすべて」の解説書に、実父は「曾我廼家鬼蝶」という名前の喜劇役者だった、という記載がある。

 幼くして芸事を仕込まれた冨士蓉子は、全盛を誇っていた安来節を見て、「これなら私にもできる」と、出雲お六という安来節の大家の元に飛び込んで、わずか六歳で花形になったというのだから、天才少女の名に恥じない実力である。

 小学生にも満たない小娘が大人顔負けの安来節を唄い、芸達者な所をみせるとだけあってか、その人気は凄まじかったそうで、養母の浜田梅吉と共に安来節の一時代を飾った。例えるならば、美空ひばり的とでもいうべきであろうか。

 その後、十歳にして漫才に転向。最初は子供同士でコンビを組んだ所謂、少女漫才だったそうで、

 トップ そうすると、あの、相方といいますかね、もちろん漫才の場合は二人ですけれども、相方っていうのはどのくらいいらっしゃったんですか?
蓉 子 子供の時分――いちばん初めの時分は、女の子ばっかり、同じ女の子ばっかり、二つくらい歳が上でしたかね。その子を二人くらいつけまして、それで今度、その次が男の人の大きいのばっかりです。
トップ ああ、つまり年配者ですね。
蓉 子 ええ、年配者です。危ないからなるたけ若いのをつけないです。
トップ ああ、なるほど。同じ年恰好だと色恋に走るからってやつですね。
蓉 子 そうですね。男の人、男の人でもって、ちょいちょい替わったとしても、四、五年は続いてました。何時でも。四、五年経つと替わっちゃうんですね。
トップ そうすると、お父さんの方が替えちゃうわけですね。
蓉 子 替えちゃうわけです。私が替えるわけじゃないんですから。

「東京漫才のすべて」より「華やかなる昭和ひと桁」

 と、本人は語っている。そして、ある程度大きくなって、色気づくようになってくると、今度は年輩の男ばかりと組まされた。

 この背景には、若い男と組んで、色気づかないよう、駆け落ちしないようにする周囲の配慮であったが、恋の一つもする事の出来なかった彼女の肩身の狭さ、辛さは幾許たるものであったか。結局、彼女と息の合う人物が登場するまで、もう少し時間がかかる。

 また、そんな華々しい活躍とは裏腹に、その生活や躾は想像を絶する厳しさだったそうで、先述の対談の中で、

トップ 大変厳しく育てられたという風に伺ってますが。
蓉 子  厳しいも厳しいも一人歩きは絶対にさせません。楽しい事は一つもなかったです。舞台だけが楽しかったです。好きだから。
トップ そしてその舞台上がってるときは自由で……
蓉 子 忘れてます。
トップ 自由の身ということですよね。
蓉 子 そうです。

(中略)

 蓉 子 楽屋に来ると黙っちゃってて。笑えば怒られるね、喋れば怒られる、何しろくっついててね、その、大きい大物が大きな笑い声するな、とか、ね。下を向いて座っていれば、何が悲しいんだ、って食ってかかられるし。

「東京漫才のすべて」より「華やかなる昭和ひと桁」

 時には一日十六回も舞台に出演させられたなど、今ならば虐待だと思われても仕方がないような、環境の中で育ってきたことを告白している。

 もっとも、昔の芸人の教育はこれが普通であり、うまくできなければビンタや殴打など日常茶飯事であった事も忘れてはならない。今と昔では考えもしつけのやり方も違う。これに尽きる話である。むしろ、古い芸能界の厳しさを裏付ける証言ではないだろうか。

  ・東京のミスワカナ

 十歳で漫才に転向した彼女は、親の方針で多くの大人とコンビを組まされた、と先述したが、そのコンビの変遷はめまぐるしく、どのくらいの人物と組んだのかははっきりとしていない程である。小島貞二は、

コンビは本人の意思とは関係なく両親が決めたので、長くても三、四年、短ければ一年ほどでめまぐるしくかわった。最初は同年輩の少女同士だったが、のち千代廼家弟蝶、加藤滝夫、吉田明月、翁家太郎など、大人のヴェテランたちが相棒をつとめた。

(「大衆芸能資料集成 7巻」258頁)

 と、しているが実際はもっとコンビを組んでいたのではないだろうか。

 そんな厳しい環境の中で、彼女は大の男を相手にやり合うだけの実力をつけ、見る見るうちに人気者の階段を昇って行った。

 そして、レコード吹込みを始めたのもこの頃である。小島貞二の挙げた相方とは最低一枚以上は吹込んでいるのではないだろうか。その枚数はリーガル千太・万吉の八十数枚と肩を並べるというのだから、人気のすごさ、たくましさが窺える。

 何といっても、蓉子の天才ぶりには驚くばかりである。「三曲萬歳」や「ポンポン問答」というような古くからおこなわれてきた芸は無論の事、レビューガールの物真似やダンスといった近代的なもの、あるいは流行歌や俗曲、民謡に至るまで、なんでもござれというのだから、恐ろしいものである。

 なお、この富士蓉子に多くの台本を提供し、影の功労者になったのは、演芸作家の正岡容である。小島貞二は、

それから間もなく東京にもどった正岡氏は、東京の天才少女万才といわれた冨士蓉子のために、レコード用の新作を何本か書く。”蓉”の字に結ばれた奇縁というより、「万才」への愛情がそうさせたのだろう。

(「大衆芸能資料集成 7巻」209頁)

 と、正岡と蓉子の奇縁を如何にもそれらしく書いているが、正岡自身はそこまで考えていなかったのではないだろうか。

 実際の所、正岡容は漫才こそ見ていたものの、浪花節や落語以上の興味関心は覚えなかったようであるし、逆に上方落語を衰亡に追い込んだ吉本及び上方漫才を強く恨んでいた(無論、評価に値する漫才師は高く評価していたが)。

 また、氏は赤貧を洗うような境遇に居り、何が何でも生活の糧が必要であった。その為に漫才台本を提供していたという事を踏まえると、小島氏の指摘するような「愛」が存在していたかとなると甚だ疑問である。

 そんなこんなで「天才少女漫才」として成長し、立派になった彼女は、念願であった同世代・同性の相方とコンビを組むに至った。相手の名は若葉小夜子といい、達者な芸の持ち主であったという。

 二人は当時珍しかったドレスを着こなし、タップダンスや流行歌を披露する独自の芸風を確立し、「二人漫談」という看板を掲げた。この名称は、エンタツ・アチャコなども使っていたが、富士蓉子本人は、『万才という名称があまり好きではなかった』と対談の中で語っている。

 戦前は、浅草とレコードを中心に活躍していたが、1939年に巻き起こった吉本と松竹の対立――所謂「新興演芸部引抜き事件」によって、新興演芸部の所属になった。この時、一緒に所属した関係者に、隆の家万龍、桜川ぴん助・美代鶴、叶家洋月・春木艶子などがいた。その後は、新興演芸部によって与えられた舞台で活躍していた。

  ・ベールに包まれた戦後の動向

 戦後、新興演芸部も吉本興業も一旦解散し、非常時の戦争協力も相まって漫才は下火になってしまった。さらに、不幸な事は続くもので、長い間、自分の芸を受けてくれた相方、若葉小夜子が夭折を遂げてしまったのである。

 いつ頃亡くなったかは定かではないが、早く亡くなったのは間違いないようで、波多野栄一も「寄席といろもの」の中で、

富士容子・若葉小夜子

女でレコードに入れたのは最初?終戦後?若葉が若くして亡くしたの惜しい

 と、指摘している。彼女の死によって、蓉子・小夜子のコンビは解散となった。

 その後、蓉子は春木艶子と別れた叶家洋月とコンビを結成し、「洋月・蓉子」の名前で活動を再開する。洋月とは新興演芸部以来の戦友であり、洋月自身も達者な芸人だった。当時を知る源氏太郎氏の証言によると、「艶子と別れた洋月さんを、蓉子さんに紹介したのは、喜代駒の親父だったと本人たちから聞いた事があります」。

 1953年の「アサヒ芸能新聞」に、演芸作家の松浦善三郎が「関東漫才斬捨御免」と称して、この洋月・蓉子のコンビの事を記している。少し長いが、その当時の面影を偲べる貴重な資料なので、全文引用することにしよう。

 ◎叶家洋月 冨士蓉子
蓉子の三味線と唄、洋月の踊り、更には対話術の妙など音曲漫才としては斯界の最もたるもの。蓉子が戦後、家の問題コンビの点等でスタートが遅れたので大分損をした形だが、今日では蓉子洋月でその位置は確たるものがあり。既に放送でもなじみ深い。往年の「新興」時代、女としては三味線を持たせて日本一とうたわせた大看板の蓉子も、戦後は一人息子も大きくなってくるし、だいぶいけた左の方も全然やらずに、まず名よりも実と地道に稼いでいる。「江戸風」を本当に感じさせるスッキリとした舞台。浅草の小屋で蓉子がピン/\三味線をひゞかせて、都々逸でも唄うと必ず大向うから「日本一ッ」と声がくるからお客と云うものはうれしいもの。名古屋あたりでも人気はよろしい。洋月の娘さんが病気ときいてだいぶ久しいがどうしたか。

(「アサヒ芸能新聞」1953年11月1週号 17頁)

 ちなみに、洋月は先妻の艶子との間に一子がいた(詳しくは洋月の所で書くが、)この子は後年、叶屋勝二と名乗り、太神楽曲芸及びアクロバットで活躍を遂げた。

 その後、思うところあって洋月と別れ、コンビを転々としていた模様で昭和50年代頃まで、キング静香という年下の女性とコンビを組んで、主に木馬館を中心にして、老練な芸を魅せていた。この静香という女性は、元々荒川清丸と組んでいた人物か。

 また、1976年には、LP全集「東京漫才のすべて」の企画に参加をし、貴重な談話をおさめた。現在、ここに書くことが出来るのは、その談話のおかげという節もある。

 芸歴50年過ぎても矍鑠としていた蓉子であったが、1977年にホームグラウンドであった木馬館が閉鎖され、活動の場が一つ無くなってしまう。それに殉ずるように、彼女の消息もまた、辿れなくなりはじめるので厄介である。

 引退したのか、一線を退いたのか、場所を変えてやっていたのか、推測するより他はないが、木馬館閉場時にはまだ60歳前後、その前年にトップさんと対談している所を踏まえると、その後も暫く生きていた、と解釈するのが、妥当な所であるか。

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