砂川捨勝・祇園千代子

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砂川捨勝・祇園千代子

 人物


砂川 捨勝 すながわ すてかつ 

・本 名 西村 勝己
・生没年 ?~昭和39年前後の9月
・出身地 九州 熊本?

祇園 ぎおん千代子ちよこ

・本 名 西村 千代
・生没年 ?~昭和39年以降  
・出身地 京都

 来歴

 ご子息の御健在が判明したので、目下調査中です。

 砂川という亭号の通り、砂川捨丸の門弟の一人で元々は関西の漫才師だったというが、何といっても特筆すべきは、伝説の歌手、西村つた江の両親だったということである。昭和20年代に颯爽と現れ、第7回紅白歌合戦にも出場する程の人気がありながらも、突如として引退を表明し、表舞台から退いた西村つた江。しかし、その人気や巧さは未だに懐メロファンや歌謡曲研究家の間で語り草になっている。

 西村氏の業績や歌の記録などを記したいところではあるが、本ページの趣旨とズレてしまうので、ここでは砂川捨勝・祇園千代子の話題を中心に書き進めて行く。

 捨勝は九州の生まれだそうで、西村氏によると「熊本の方ではなかったでしょうか」とのことであった。確定が出来ないので一応「?」をつけておいたが、九州生まれなのは間違いないようである。

 小島貞二によると、この捨勝は大阪漫才の大御所であった市川順若の縁者だったそうで、「大衆芸能資料集成」に、

 二代目順若は、順若以前に松鶴家千代八の弟子になり、日の丸と名のった。現在は引退しているが、東京に健在の松鶴家日の一は、この日の丸の門弟になる。また捨丸門下だった砂川捨勝は、日の丸の甥に当る。

(『大衆芸能資料集成 7』 18頁)

 と、記している。市川順若、及び、松鶴家日の丸については、桂喜代楽松鶴家日の一のページにも記してあるので、ご参照の程。

 そんな大御所を縁者にもって生まれた彼は、やはり漫才師になる運命を持っていたのか、当時漫才師として大変な人気を博していた砂川捨丸の門を叩き、砂川捨勝と名づけられる。この芸名は本名が関係していることであろう。

 一方の千代は京都生まれで、三味線が得意な人物だったという。祇園と言う名前から芸妓さんやその辺りと関係があったのではないだろうか。

 上京時期は定かではないが、昭和5年に娘(西村つた江氏)を浅草で生んでいる所を見ると、その時にはもう東京にいた模様である。そう考えてみると、大正末期頃にはもうこちらに来ていたとみるのが妥当か。

 戦前は主に浅草を本拠地に活躍しており、波多野栄一によると、

 砂川捨勝 千代子
義太夫座のレギュラー 酒が好きだった

(波多野栄一「寄席といろもの」)

 だったという。義太夫座はそもそも女義太夫の興行がかけられていた事に起因するが、昭和の頃より漫才の定席となり、戦争末期に強制疎開で取り壊されるまで、東京漫才の殿堂として人気があった。

 一方、根本圭助「忘れ得ぬ人々 思い出の風景」に、

 砂川捨勝師は関西の捨丸と同じ流れの正統派の漫才師で、砂川派の東京支部長として活躍した。

(根本圭助「忘れ得ぬ人々 思い出の風景」 273頁)

 とあるように、東京にいた砂川派の芸人たちのリーダー格としても活躍したという。

 その当時、東京には砂川と名乗る漫才師は多く、会長の捨勝をはじめ、政春、愛之助、捨坊、捨夫(後の大江茂)などがいた。また、後年の東西交流で客演した面々を含めるとその数は結構なものとなる。言わば、捨勝は師匠の代理として、東京における砂川一門のリーダーであり、窓口であったという訳であろう。

 帝都漫才協会が発足した折には、役員として活躍、昭和18年度における名簿を見ると、『理事第一区部長』とある。やはり、そう認められるだけの人望と人気はあったのだろう。

 また、戦時中は従軍慰問にも参加していたようで、早坂隆の『戦地演芸慰問団「わらわし隊」の記録」を読むと、

北支那慰問班

河内家美代次・文春、東亭花橘・玉子家光子、大利根太郎(曲師 吉沢団蔵)

中支那慰問班

桂金哉・金二、祇園千代子・砂川捨勝、木村小友(曲師・戸川大助)

南支那慰問班

千代田みどり・松緑、林家染子・染次、広沢小虎造(曲師・とし子)

艦隊慰問班

柳家千枝造・漫作、奥野イチロウ・竹本ジロウ、秋山右楽・左楽 浪花軒〆友(曲師・荒川文柳)、松平晃(アコーディオン・岡本豊久)

 (同著 348~9頁)

(註・資料の記録された当時の情勢や資料の引用上の関係から、支那と記しておりますが、決して差別を助長するものではありません。ご了承ください。)

 と、いう記載がある。当時、慰問に出るのは大きな仕事の一つであったが、東亭花橘の所でも述べたように、「わらわし隊」とは中々の実力者であるとともに、やはり、吉本との関係もあったのではないだろうか。

 しかし、戦争末期には度重なる大空襲に罹災し、家や商売道具、思い出の品などほとんど焼いてしまったという。さらに終戦で慰問の仕事も失ってしまった。

 その後、戦後一時期までは漫才師と活動はしていたようであるが、そこまで目立った形跡もなく、半ば引退に近くなり始めた。特に娘の成長は彼らの心の支えと安心になっていたのかもしれない。

 それでも長年のキャリアや実績が買われたのか、昭和30年に漫才研究会が設立された時には、幹事として迎え入れられたと見えて、

  二月廿八日
 研究会出演終了の御礼状を各新聞社(十六)へ出す
礼廻各放送局及、小山芸能社、柵木芸能社、共立芸能社、大朝家、台東芸能社、吉本株式会社、新芸能、帝国芸能中島、毎日新聞社

 幹事追加 芳勝、捨勝
 書記 サンプク

(八木橋伸浩『南千住の風俗 文献資料編』31頁)

 と、いうような記載がある。だが、その後の活躍は殆ど見られないので、体面の上での幹事だったのではないだろうか。しかし、漫才研究会に携わっていたのは事実である。

 また、余談ではあるが、西村氏がまだ若かりし頃、巡業の一座で大阪に行った折、出演した劇場にわざわざ砂川捨丸がやってきて、支配人や関係者を大変驚かせた、という逸話を本人より伺った。

 当時、捨丸は漫才界の長老として広く尊敬を集めており、劇場主や興行主からも一目置かれていた存在である。本人曰く、「驚いたでしょう。デビューしたての歌手の所に父の師匠である捨丸先生が来たんですから……」とのことであるが、師匠として、弟子の娘の晴れ姿を応援しに来たのではないだろうか。西村氏本人も、父との関係があったのでしょう、という事は仰っていた。

 順調な活躍を見せていた西村つた江であったが、昭和39年5月に阿部鬼八郎氏と結婚し、その直後に引退をした。引退の理由を、漫画家の根本圭助氏に尋ねた所、「ご両親の面倒を見るために引退したという話を聞いた事がある」というお答えであった。

 娘の引退前後で、捨勝は病に倒れ、9月頃に亡くなったそうである。一方、妻の千代子は、その後もしばらく健在だったそうで、「父が先に亡くなったはずです」と、西村氏本人より伺った。倒れた際、昔のよしみであった松鶴家千代若が見舞いに駆け付けてくれたという。

 調査中のため、目下はこれが限界である。何卒ご了承願いたい。

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