マキノ葉子・ヤマト菊栄

マキノ葉子・ヤマト菊栄

マキノ葉子・ヤマト菊栄(右)

 人 物

 マキノ 葉子ようこ
 ・本 名 牧野 容子
 ・生没年 1927年6月25日~2018年?
 ・出身地 東京

 ヤマト 菊栄きくえ
 ・本 名 山本 絹子
 ・生没年 1930年1月4日~1997年頃
 ・出身地 東京

 来 歴

 マキノ葉子・ヤマト菊栄は、戦後活躍した女流漫才。葉子は、マキノ洋一・初江の妹であり、菊栄も大和家春子の娘というサラブレッド同士のコンビであった。オーソドックスな音曲漫才を得意とした。

 マキノ葉子の父は神田来山という講談師で、兄はマキノ洋一という芸能一家。幼い頃から芸に囲まれて育ったそうで、芸を仕込まれた。

十代で漫才デビューをしたらしく、1943年の大日本漫才協会の名簿に、「江戸家松之助 牧野要次郎、江戸家容子 牧野容子」とある。

 なぜ、「江戸家」と名乗ったのかは判らない――が、戦後、物真似や三味線漫談をやっていた所から、どうも江戸家猫八の身内になっていたのではないか、と考えられる。「葉子さんは、若い頃、確か、女猫八といっていた」とうれし氏の弁であるが、詳細は不明。

 戦後、「マキノ洋子」と改名し、兄とのコンビを続投。地方巡業や進駐軍慰問などを行っていた。そのため、この兄妹は中々英語に秀でており、英文など読む事が出来たという。

 1948年、兄が結婚して夫婦漫才を結成した為、コンビ解消。

 その後は日の本照美とコンビを結成して、音曲漫才を続投していた。1951年12月27日にはNHK「若手芸能家の時間」に出演している様子が確認できる。

 その頃の芸風と事情を記したものに、松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1953年11月4週号)があるので引用をする。

 終戦後のスタートダッシュは見事なもので「新婚旅行」をひっさげて、洋子の笠置シズ子張りのイミテーションソングとともに一頃の人気は放送に実演に大活躍であったが、 このところ息切れて一服の感がある様に思えるが如何。
照美が丈夫でないと聞いているかその為か、ネタの「新婚旅行」が受けなくなったか。 洋子の唄が当節マッチしなくなったか、旅が多すぎたためか――どこかに人気の推移した原因がある訳だ。 まだまだ両人とも若い美人で舞台もしっかりしているのだから、往年の新鮮味を取り戻してニューセンスの台本のも とに中央で張り切れば、女流の少い今日、かつての地歩からくずれ落ちる事はあるまいと思う。
照美のイット、洋子のギャグは定評のあるところ。更にこの長所を発揮して一ふんばりする事を祈るや切。

 このコンビで人気を博したものの、1954年頃解消。

 その後しばらくはピンでやっていたらしく、1954年8月23日、「三味線声帯模写」と銘打って、NHKラジオに出演している様子が番組欄から確認できる。

 この一人舞台は結構長く続き、三味線を持って歌や物真似をする芸風を確立。その為、1955年の漫才研究会発足には関わらず、初期メンバーに名を連ねなかった。

 1950年代後半、ヤマト菊栄とコンビ結成し、「マキノ葉子・ヤマト菊栄」として再出発。1961年には既に一枚看板として「漫才協団」の名簿に記録されている。

 相方のヤマト菊栄は、戦前、大和家三姉妹で売れに売れた安来節の大スター、大和家春子の実娘。大和家八千代・酒井義二郎は叔母夫妻。大和家かほるは芸の上での親戚にあたる。

 母親は安来節の名手、父も「八木日出夫」という漫才師だったところから、早くに芸に親しみ、幼い頃から芸の素養はあったという。しかし、太平洋戦争や母親の引退や隠居(山陰地方へ疎開したという)などで有耶無耶となる。

 戦後、八千代一家と共に上京。八千代家に出入りして、家事手伝いなどをしていたそうである。間借りの関係みたいなものだったのだろうか。

 現八千代氏曰く、「高校時代はよくお弁当を作ってもらっておりましたね」。

 長らく八千代家に出入りをする一般人として平穏に暮らしていたが、30近くになって漫才に転向。

 この辺の事情はハッキリとしないのだが、二代目八千代氏によると、「元々親や親戚の関係から芸の方には興味があったのですが芸人になるわけでもなく、特に変わった事もすることもなく――と思っていたら、30過ぎてアコーディオンを習って漫才をやり始めました」というような経緯があったようである。

 コンビ結成後は漫才協団に所属。マキノ洋一・初江や大和家八千代の引き立てもあり、浅草の劇場や寄席に出演するようになる。

 1963年2月23日に開催された第11回NHK漫才コンクールにも出場。惜しくも入賞を逃した。

 出場者は、Wけんじ(優勝)、若葉茂・高山登(準優勝)青空うれし・たのし(三位)都上竜夫・東竜子(特別賞)、都上秀二・西秀一、東晴々・谷朗々、南賢児・伸児、京美智子・西美佐子、マキノ葉子・ヤマト菊栄、新山ノリロー・トリロー

 葉子が三味線を、菊栄がアコーディオンを持った華やかな漫才だったという。一時期は人気を集めたが、菊栄の体調不良や葉子の優しすぎる性格などが仇となって、第一線に上り詰める事は出来なかった。

 芸風や人柄は、『月刊ペン』(1977年9月号)掲載の藤井宗哲『兵隊漫才・その滅びの美学』に詳しい。以下はその引用。

当夜のプログラムは、

物真似・腹話術 宝日出夫
漫才 マキノ葉子(三味線)・ヤマト菊栄(アコーデオン)
マジック 松旭斉千恵
漫才 宝大判・小判
歌謡ショウ シャンバロー

の面々である。

私にとっては、懐かしくも楽しい人ばかりである。
 女流漫才の葉子、菊栄さん達を知ったのは、たしか三波春夫ショーに出ていたのが最初で、その後は、ときどき木馬館でも見た。久しぶりでご両人の舞台を見、アコーデオンの菊栄さんの歌に張りがなくなったと思って、聞いてみると、一年ばかり大病で寝ていたという。
 この二人の良さ(といっては生意気だが)は、少しも気取るところがなく、いわば、長屋の芸事の好きなオバサンが、周囲のおだてに乗せられ、恥をかくのを承知で、じゃあと、立ち上がり、掛け合い話を演じているみたいに、いつ見ても玄人っぽさを感じさせない。
 鶴見俊輔は「漫才とは恥をかこうという思想である」と説いておられる。 このご両人の姿勢には、いつもそれがあって、だから、ばかばかしく楽しい。

 松竹演芸場と木馬館を中心に、堅実な活躍を続けてきたが、1970年代に菊栄が体調を崩してからは出演数が減るようになる。

 1990年代半ば、ヤマト菊栄とのコンビを解消。菊栄が没してコンビを解消したのか、菊栄の病気のために解消したのかまでは判らない。

 菊栄は、平成に入って間もなく亡くなったそうで、「絹子姉さんは、確か、阪神淡路大震災がありましたでしょう。その2年後くらいに亡くなった、と記憶しておりますが」と、八千代氏から伺った。1997年頃に亡くなった模様である。

 菊栄の従兄弟にあたる二代目大和家八千代氏より伺った話では、「菊栄姉さんが亡くなった後は、埼玉の方へ引っ越して学生寮だったか、アパートの管理人をしていたのを覚えています。娘さんがいましたが、確か国際結婚なされたとかなんとか伺いましたが……」。

 この国際結婚は事実らしく、マキノ洋一初江の遺族も同じことを発言していた。

 晩年は年齢もあってか、身の回りを整理して、養老院に入居。平穏な老後生活を送っていたという。甥(洋一初江の息子)が出入りしていたそうな。

 2017年に洋一初江の遺族に質問をお送りした際にはまだ健在との旨であったが、2018年に亡くなったと聞く。

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