東まゆみ・大和わかば
まゆみ・わかば(左)
内海桂子・好江と
前から時計回りに、桂子・わかば、好江、まゆみ
喜代駒とまゆみのコンビ
人 物
東 まゆみ
・本 名 成沢 峰子
・生没年 1932年5月12日~ご健在?
・出身地 東京 市ヶ谷
大和 わかば
・本 名 宮川 喜美子
・生没年 1932年5月17日~ご健在
・出身地 東京
来 歴
戦後、『おしゃべりシスターズ』という名称で売った女性コンビ。東まゆみは「東」の亭号通り、東喜代駒の門弟。わかばは、大御所「大和家かほる」の実の娘。恵まれた才能をフルに生かし、しゃべくり一本の女流漫才として頭角を現したが、志半ばで解散した。
まゆみは、美貌で知られた漫才師で、中々の浮名を流したという。その経歴は真山恵介『寄席がき話』に詳しい。
まゆみは市ヶ谷の生れで、信州に疎開中、ローカル放送の児童劇での主役募集に三百人中第一位に選ばれ、これが芸界入りの動機となり、十六才の時東喜代駒の門下になった。その後、女子セレモニアンとして山野愛子らの“美容講座”の司会役をやった。
「動物がとても好きです。だからこんど手乗りの文鳥“ポコ”って名ですけど、それを飼うようになって、古くからいる猫をクビにしました。だってポコをねらうんですもの」
とわかったようなわからないような動物愛護精神は、やっぱり漫才調である。
東喜代駒の末弟子として可愛がられ、前座時分から喜代駒の仕事やパーティーなどのお供をしていた。
入門当初は「沢まゆみ」と名乗っており、1952年秋から数年間、師匠喜代駒とコンビを組んでいた事もある。このコンビでレコードも吹き込んでいる。いつしか公開しようか考えている。
一方のわかばは、漫才師の大和家かほる・宮川貞夫の長女として生まれる。両親は漫才師に民謡歌手、兄は漫才と司会の大空みのるという芸能一家であった。今も司会漫談で活躍するナナオは実の甥っ子にあたる。
親が芸人とだけあって、早くから芸事を仕込まれる。真山恵介『寄席がき話』に、
わかばの方は母が大和かおる、父が石井春波門下の活弁という芸能一家、戦時中”ピッコロショー”でタップなどを踏んでいたわかばは、可愛い人気者だった。後に母の三味線と自分はギターで組んだ。
と経歴が出ている。戦時中、父親がマラリアで亡くなったため、幼くして舞台に上がる事になる。
敗戦後、しばらくは、ダンサーやアコーディオン奏者をして生活を送っていたそうで、浅草で商売をしていた時分の内海桂子と深い面識があった――と、内海桂子の自伝の中にある。上野高等女学校へ通っていたそうであるが、家の関係などから中退した模様。
1952年、大空ヒットとコンビを解消した母、大和家かほると母娘漫才を組み、「大和かほる・ワカバ」を結成。
真山恵介は『寄席がき話』の中で、「自分はギターで組んだ」と書いているが、実際はアコーディオンであった(もっともギターも弾けたそうなのでそれで舞台に上がったことはあるかもしれない)。この前後で、岡晴夫一座にいた楽団員と結婚し、「小島」と姓が変わっている。
幼いながらも達者な芸と愛くるしさでたちまち人気を集め、漫才大会や浅草の劇場などへも進出するようになる。1953年3月には、高波志光児らと共に、ハワイ・米国巡業へ出かけている。
その頃の芸風が『アサヒ芸能新聞』(1954年2月1週号)掲載の松浦善三郎『関東漫才切捨御免』に掲載されているので引用しよう。
大和かおるが大空ヒットと組んでいた舞台も長かった。なんでわかれたのか其の理由を知らないが別れてもう二年近くになるがそういう事は「わかば・かおる」の女流コンビが一年半以上になるという事だ。
前号に書いた笙子と美智子のコンビと相対で、ここにもベテランかおるががわかばを育てなければならない宿題がある
ただわかばの場合既に結婚しているし、人間的に生長しているわけで、かおるは舞台面だけ教育すれば良いのだから美智子に対する笙子と比較すれば幾分楽だろ
ヒット・かおるが別れた後、声帯模写ワタナベ正美の支配人をしている松川洋二郎氏が一頃かおるを持ちまわっていたようにも聞いていたが、昨年3月此の女流コンビで光児。光菊と共にハワイから米本土に渡り在米一世を慰問している間に松川氏と手が切れたようで、6月に帰朝してからはかおるが自分で商売をしているらしい。
わかばがアコを持って流行歌を唄い、かおるが安来節時代から鍛えた三味線で民謡をつぎつぎに出して其の間をしやべりでつなぐ、女流としてはけっこう華やかな歌謡漫才。之は之で完成の城にあり売れっ子の組に入る。美しいお色気のあるのも舞台には一得だろう。
1955年には、「大和ワカバ・かほる」名義で漫才研究会の発足に関わり、入会。同年4月に行われた発会記念漫才大会にも出演している。
1956年、コンビ結成。1957年3月、第1回NHK漫才コンクールに出演し、『私のラブレター』を披露している。
以来、コンクールへ積極的に出場するようになり、1959年3月、第5回NHK漫才コンクールでは準優勝受賞。
1959年秋に行われた第7回NHK漫才コンクールに出場し、『オペラ・ゲラ椿姫』を披露。この時は惜しくも敗れたが、その時の模様が『読売新聞夕刊』(1960年2月20日)に掲載されているので引用。
⑦『オペラ・ゲラ椿姫』大和わかば・東まゆみ
体あたり派のわかば嬢?と淑女派のまゆみ嬢?の名コンビ。片やアコをグッとひきまくれば、こなた奇術仕込みの奥の手でどんなテクニックを示すか……。
補足として、『朝日新聞夕刊』(1960年5月15日号)に掲載された経歴も載せておこう。ちょうど人気も出始めたころの、貴重な資料である。
女性漫才の新人、大和わかば、東まゆみさんのコンビ……。二人は、一八日の午後二時五分NHK第一の『午後の娯楽室』に出演する。演目は「私の配偶者」。コンビ結成は三十二年、初放送は翌三十三年、昨年の春NHK漫才コンクールで第二位になった。審査員は口をそろえて、いままでの漫才にない、近ごろの若い女性を表現する芸、とくにわかばさんのとぼけた三枚目ぶりをほめた。
わかばさんの本名は小島喜美子、昭和九年生まれ。七歳からステージに立ち、タップダンスや歌も得意。上野高女中退。まゆみさんは本名成沢峰子、昭和十年生まれ、疎開先の長野県上田市近くの丸子実業高校卒業。十三歳のとき放送に出演、声優志願だったが、山野美容教室の司会者をやったりして、現在のコンビになった。
女の漫才といえばたいてい楽器を使って歌ににげる歌謡漫才が多いが、二人は楽器を使わず、対話、かけあいの面白さでつらぬくやり方で、ふたりは自分たちを”おしゃべりシスターズ”といっている。
1960年10月、第8回NHK漫才コンクールで準優勝受賞。貴重な女流漫才、一切音曲に頼らない漫才として注目を浴びる。
1961年3月、第9回NHK漫才コンクールを優勝。初の女性コンビの優勝であった。
但し、この優勝にはトラブルがあったそうで、青空うれし氏曰く、「俺たち(うれしたのし)とまゆみわかばの点数が裏でひっくり返されて、順位が逆転したっていう話をトップさんから聞かされて以来、コンクールに執着しなくなった」。
1961年2月、漫才研究会と松竹演芸場主宰の「漫才横丁」のレギュラーに抜擢され、新山ノリロー・トリロー、大空平路・凡路と共にコメディへ進出。
1960年夏から1962年にかけて落語協会に出入りをして定席に出演。この頃の写真が残っている。
寄席に喜劇に、独特のコメディぶりを発揮し、未来の大看板として期待されたものの、まゆみが芸よりも恋を選ぶ形となり、1963年頃、まゆみわかばのコンビを解消した。
まゆみは芸能界から一線を退き、茗荷谷に居を構え、さる寄席関係者の大物と懇意の仲になった。深い事情を知らない事もないが、流石に書けません。
その旦那と、しばらくして別れ、別の人と結婚。小料理屋を経営していた――と源氏太郎氏より伺った。これもまた書けない所が多い。市井の人となって、幸せに暮らした――と記すよりほかはないだろう。
まゆみと別れたわかばは、実兄の大空みのるとコンビを組み、「大空みのる・わかば」を結成。兄がギターを弾いて、妹が歌って踊るという音曲漫才へと転じた。
両人とも達者で華やかな所から落語協会や芸術協会系の定席にも出演。落語協会系の寄席で活躍し、当時勃興していた寄席番組にもたびたび出ている。
兄妹だけあって息の合ったコンビであったが、みのるの結婚やわかばの家庭事情などあり、1974年頃にコンビ解消。みのるは司会漫談へ転じ、ワカバは漫才界から一線を退いた。
後年は主婦や育児などを経て、春日三球が巣鴨で経営する下着店で働いていた。三球が店を畳むまで長らく経営に携わり、昔馴染みの漫才師や芸人と度々顔を合わせていた。
先日、大和わかば氏の娘夫妻と連絡が取れ、2022年現在も健在との由である。