太平洋子・三升小粒

太平洋子・三升小粒

三升小粒・太平洋子

東陽子・星ススム

林家カレー子・ライスの漫才

人物

 人 物

  太平たいへい 洋子ようこ
 ・本 名 吉田 要子
 ・生没年 1938年1月1日~1977年2月9日
 ・出身地 東京 高田馬場

  三升さんしょう 小粒こつぶ
 ・本 名 沼田 志郁生
 ・生没年 1941年10月2日~2018年2月24日
 ・出身地 神奈川県

 来 歴

 高度経済成長期に活躍した漫才師。100キロ近い大女の太平洋子と小柄でヒョロヒョロの小粒との対比で人気を集め、落語協会系の寄席で活躍した。男女コンビであるが夫婦ではない。

 太平洋子はおデブタレントの先駆けとして活躍したが夭折。

 三升小粒は後年、「林家ライス」と改名し、妻の「カレー子」と共に環境漫才やいじめ防止漫才などを開拓、独自の活躍を見せたが物故した。

太平洋子、その前歴

 実家は高田馬場の洋服屋。幼い頃から肥満症で、小学生の時分で着られる服がないため、中学校のセーラー服を着ている程であった。

 巨軀のため、洋服づくりや運動等で苦労をしたが、学校では人気者で、多くの人から慕われた。

 中学卒業後、関東学園女子高校時代に進学。ここでも人気があったという。思春期時代の思い出は『女学生の友』(1966年3月号)に詳しいので引用する。

 高校3年生の時にのど自慢大会に出演し、鐘二つ獲得。その時に「マンザイになりたい」といって司会者を驚かせた――という逸話が『産経新聞夕刊』(1960年7月19日号)に出ている。

 高校卒業後、歌手を目指して、作曲家の元へ出入りするようになるが、間もなく漫才に転向。

 1956年、都上英二・東喜美江の門下に入り、東陽子と名乗る。この異色の入門はちょっとした話題となり、『週刊NHKラジオ新聞』(1957年8月18日号)に取り上げられた。以下はその引用。

 ところでここに最近変うた話題を一つ。女同士、男と女のコンビもあるのだから、決して”女であること”は珍しくはないが、体重がなんと三十貫という女の漫才が現れたものだ。その名は東陽子で相棒が星ススム。英二・喜美江の門下でこの三月から寄席に出ている。
 ノッポにチビ、デブにヤセッポというコントラストが珍しくない漫才でも一人で三十貫といったら大関若ノ花クラス。いかにキング・サイズばやりの当今とはいえ全くの型破りで、前代未聞というほかはない。過日、NTVの「デブちゃんコンクール」に出たらデブちゃん用のシャツが全然着られなかったそうである。で、その漫才も型破り、「なにさ、大きいのは生まれつきよ」てな掛合いで、いつてみればテレビ向きの漫才。
 この東陽子、洋服屋の娘で、ことし二十三歳。関東学園を卒業一時歌手を志望して、ある作曲家についていたが途中から漫才に転向、昨年から英二・喜美江の弟子になつた。
「なにしろ身体があの通りでしょう、見ただけでドツとくるような。そのたぐいマレな身体を利用して、何か変つた見せる漫才に仕立ててみようと思っているんですが…」とは師匠の弁。

 1年間の前座修行を経て、1957年4月、星ススムとコンビを結成し、浅草松竹演芸場で初舞台を踏む。コンビの仲介役は松鶴家千代若であったという。

 このコンビで漫才研究会に所属し、余興や演芸場などに出演していたが、諸事情のため解散。

 1963年1月、東ミヤ子の名前で、東喜美江を亡くしたばかりの師匠都上英二とコンビを組む。『演劇界』(1963年2月)掲載の『寄席演芸最近』の中で、

万才の英二・喜美江でおなじみだった東喜美江がなくなったのは、さる十月の半ば、コンビであり、夫婦であっただけに都上英二の落胆はみるもあわれであったが、ようやく心気一転、弟子の東ミヤ子を新しい相棒に、初席の上野鈴本からカムバックした。

ミヤ子は前名東陽子、三十貫近い超グラマーぶりが、まずコントラストの妙を印象ずける点は強い。喜美江が、関東のミス・ワカナといわれたほど達者だっただけに、芸の上の割り引きはどうしようもない。長い目で育ててやりたい新コンビである。

 と、取り上げたものの、わずか2か月で解散してしまった。

 1963年3月、落語家出身の三升小粒とコンビを組んで、上野鈴本でデビューを果たす。

三升小粒、その前歴

 出身は神奈川。幼い頃から落語や演芸が好きで、1956年、牧野周一司会の『素人寄席』で合格し、「わんぱく亭きかん坊」という名前を頂戴している。

 1957年、中学を卒業した後、六代目三升家小勝に入門。「三升家勝丸」と名乗る。芸に厳しい師匠に扱かれながら、古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭円歌、三遊亭圓生、林家正蔵といったお歴々の至芸に接した。

 1961年、二つ目に昇進。小柄で人懐っこい性格で慕われたそうだが、その性格から少し上の先輩、立川談志のいたずら相手としてずいぶんやられたという。その逸話や自慢話は『談志楽屋噺』をいくつか拾うと――

 漫才の高座用のズボンを糸で縫っちゃったことがある。
 楽屋で暇だ、なにかすることはないかとみると、そこに針と糸があったから、
「あそこに掛かってるズボン持ってこい」ってズボン縫っちゃった。
 漫才の奴ぁ、高座に上がろうとしてはきかけたズボンに足が通らなくて、
「兄さん、洒落になんないヨー」
 今は林家ライスっていう奴だ。よく奴をいじめて遊んだ。

 勝丸が、やっと二つ目になれて、正月藤色の紋付を着てきた。
「おい、勝丸、おめえなにか、俺の言うこと何でもきくか」
「はいっ」
「よし、鉢巻きしろ」
「へえ?」
「へえもあるか、手拭い出せ」
 紋付袴でもってねじり鉢巻きをしちゃったわけ。
「兄さん、これ洒落にならないよ。紋付袴で鉢巻きは」
「うるせぇ、この野郎、ぶっとばされたいか、手前ェは」
 カラーの紋付袴で、頭は弁慶みたいにねじり鉢巻きしてるんだよ。サマにならねぇのなんの……。おまけにこ奴は坊主頭ときている。

 無茶苦茶である。

 1963年、師匠小勝と対立し、落語家を廃業して、漫才師に転向した。

 小粒自身は『先見経済』(1995年9月1週号)の中で「師匠の本心に気づけなかったから漫才師になってしまった」というような発言をしているが、立川談志は『談志楽屋噺』の中で、

 勝丸が師匠をしくじった。
 勝丸は、二つ目になったとき、ほうぼうの芸能社へ売り込みの手紙を出した。あたしは芸も下手です、踊りも下手です、しかし、報恩・報謝の気持は誰よりも強いです、と書いた。つまり、私はきちんとお礼をしますということを出したわけだ。ところが、小勝師匠がカンカンに怒った。落語家にあるまじきプライドのなさ、ということか……。勝丸は泣いた。
「兄さん、失敗じっちゃったんですよ、こういうことはワルイことなんですか」
「別に間違ってねえじゃないか」と勝丸に言った。
 小勝師匠には身分が違うから何も言えない。だから偉くなるということは大変なんだ、いま気づいている。ナニ偉いということでもなく、上になる、先輩になっちまうということは、まわりは言えない、誰ぁれも言ってくれないから、己れで反省するしか生きる道はないのだ……。
 すると、勝丸の叔父さんてのがカンカンに怒っちゃった。
「こんなバカなことがあるか、師匠を訴えてやる」って……。
 そこで、まあまあって、鈴本の伊藤支配人が止めて、師匠のもとをやめさせて、一応三升家の弟子だから、それに身体も小さいやつだから、三升小粒っって、デブの太平洋子と組ませて漫才師にした。いま林家ライスって亡き三平さんのところにいる。亡きところにいるというのも妙なハナシだが、現実にそうなんだ。

 と記している。談志は良くも悪くも話を盛るくせがあるので、この中間で漫才に転向した、と解釈するのが自然な流れだろう。

 自身は師匠の「三升家」と小柄な体、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」をもじって、「三升小粒」と名乗った。1963年3月、上野鈴本でデビュー。

凸凹コンビの行く末

 名の通りひょろひょろで「小粒」な(身長は150あったかどうかという本当に小柄な体形で身長158㎝の娘・まる子よりも小さかった)小粒と、身長164㎝・体重100キロ超という大柄でボリューミーな「洋子」のコントラストが売りで、小粒がボケると、洋子がとてつもない勢いで小粒を突っ込む、時には赤ん坊扱いして、相手をつまみ上げる漫才――ドツキ風の漫才を展開。

 このコントラストは、すぐさま注目を浴びたとみえてテレビ・ラジオ、果ては映画にもスカウトされるようになる。

 1963年9月公開の『温泉巡査』に、花子と太郎なる役で出演。小粒と大柄コンビでなかなかの怪演だったという。

 1964年11月、コロムビアトップ・ライト構成の「東京漫才変遷史」に出演。

 1965年3月13日、NHKホールで行われた「第13回NHK漫才コンクール」に出場。入賞には至らなかった。 

 1966年2月26日、「第14回NHK漫才コンクール」に出場。

 1966年5月公開の『東京無宿』に番台夫婦として出演。あくまでも映画の上での役柄であったが、如何にもかかあ天下の趣があったとか。

 1967年2月25日、NHKホールで行われた「第15回NHK漫才コンクール」に出演。「わたしはボステス」なるネタを披露しているが、入賞には至らなかった。

 1967年5月、新宿末廣亭の仕事を最後に、コンビ解消。小粒は一度芸能界から引退することとなる。

洋子の悲劇

 コンビ解消後、洋子は芸能界に残り、かつての相方・星ススムとコンビを再結成。引き続き漫才協団に所属していた。

 1969年頃(70年説もある)、ボードビリアンの泉たけしとコンビを組み、「泉洋子」と改名。

 1972年に行われた、第20回NHK漫才コンクールに出場している。以下はその時のパンフレットに乗せられた解説文。

 お師匠さんは?……

 泉よう子チャンは……都上英二、喜美江師に師事しました……今を去ること15年も昔です……つまり今よりもフクヨカにして、今よりも栄養のゆきとどいた頃でした。
 泉たけし君は……コメディアンの元祖とも噂に高 い泉和助師について……これも数年の弟子生活。学生時代からも早稲田の森に文学を学びながら、その身は舞台で、ズッコケる姿に憧れの灯をもやしたそうです。その二人が組んで…約3年。漫才一筋に……長い年月を費した泉よう子チャンは……110キロの巨軀をかつての熱演に、60キロのたけし君も次第に目方が減り始めたとか「重労働ですよ、なにしろ相手が110キロですからネー、彼女は一舞台終わるとビールの大ジョッキーで 軽るく…二ハイ…水を「くーッ」と…体の中に こぼし込みますからネ」のむのではなくて…こぼし込むそうです。 
 これからは?……
 2人はケンキョに言いました。「いつでも… お客様の、「のど仏け」を見られる高座をやりたいと思っています」…つまりお客様が大声で上をむいて笑う姿…。アゴをハズして笑ってくれるような舞台を、常につとめたいという心意気なんですネ。

 1975年、コンビを解消。この頃から体調を崩すようになり、舞台出演も減少。

 1977年、心臓病のため、39歳の若さで夭折。特異な体を売りにした芸人の、あまりにも哀しい最期であった。

小粒の流転と成長

 寄席を中心に中々の人気を集めたが、1967年5月、新宿末廣亭の仕事を最後に、漫才師を廃業。芸能界からも一時身を引く事になった。

 その後は就職したものの、なかなかうまく行かない日々が続いた。『産業と環境』(1993年12月号)掲載の二人の紹介文によると、

 生活のために芸能社のマネージャーから水商売、保険のセールスマンと職を転々、その間、子持ちの女性との結婚、離婚も体験、無一文の独身生活にあえいでいた七一年(昭四六年)にカレー子さんと出会った。

 とある。

 1971年、8歳下の啓子と出会い、結婚。翌年12月には娘(林家まる子)、1975年5月には息子(翁家勝丸)が生まれている。

 1976年、落語界の大スター、林家三平から声がかかり、再入門。「林家ライス」として、カムバック。林家三平が「ハヤシライス」が好きだったから「ライス」となった――という伝説があるが、真偽のほどは不明。

 三平の後見を得て、再三の売出しをかけたがうまく行かず、歌謡ショーの前座やストリップ小屋の前座などを勤める日々を過ごしていた。ピンク雑誌の仕事もしたことがあり、その写真集「ポルノ寄席」は珍本扱いされたりしている。

 鳴かず飛ばずの状況を案じた林家三平夫妻に夫婦漫才結成を進められるが、即答はせず、有耶無耶にしていた。

 間もなく師匠分の三平の死を受けて、漫才転向を決意。林家カレー子も話芸を覚え、舞台に出るようになったのを機に、1987年、本格的にコンビを結成。「林家ライス・カレー子」として、再出発する。

 長い下積み時代の経験から、単なる演芸会や劇場出演に留まらず、日本文化使節団への参加、老人ホームへの慰問、交通費だけで全国に漫才をしに行く「出前漫才」、環境問題の提起など、独特の路線を開拓。漫才協団などとは距離を置く形となった。

 この独自のやり方が、教育関係者や自治体に受け、次から次へと仕事が舞い込むようになった。以降、全国を股にかけて活躍。

 1998年、和歌山毒物カレー事件が発生するとその芸名のせいで、仕事の依頼が激減した――と笑えぬ悲劇に巻き込まれる。そのボヤキが『週刊新潮』(1998年12月3日号)に掲載されている。

 その後は再び人気を盛り返し、娘のまる子、息子の勝丸たちと協力して全国を忙しく股にかけ、70過ぎた後も矍鑠と環境問題やいじめ問題など現代的なテーマを主軸にした独自の夫婦漫才や講演で長らく活躍した。

 二人の子供も無事に成長し、老いてもなお、旺盛な活躍を見せていたが、2018年、2月24日早朝、異常ないびきをかいている所を発見され、危篤状態に陥った。

 すぐさま近くの病院に搬送されたものの、午前11時9分、脳内出血のため東京都武蔵野市の病院で急逝。

 夫亡き後、カレー子は娘のまる子とコンビを組み、2018年8月31日、浅草演芸ホールで行われた余一会「第37回 初代林家三平追善興行」で初舞台を踏み、今日まで夫・父の遺志を受け継いで、全国を駆け巡っている。

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