松尾六郎・敷島和歌子

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松尾六郎・敷島和歌子

 人 物

松尾 六郎 まつお ろくろう

・本 名 松尾 栄治
・生没年 明治十年代?~1953年以降(1976年時点で死去)
・出身地 関西?

敷島しきしま 和歌子わかこ

・本 名 松尾 タツヱ
・生没年 ??~戦後
・出身地 ??

 来 歴

 東京漫才が出来る以前から漫才をやっていたという古老中の古老のような存在で、波多野栄一に「漫才界の大先輩」とまで言わしめる程であったが、如何せん資料がない。

 それでも、夫婦漫才であった事と、古い形の漫才をやっていた事は判明している。

 このコンビを偲ぶ一番の資料は、昭和13年に発行された「漫才家懇談会」(日本文化協会)だろうか。この本は国策と漫才との方向性を模索し、国家への協力を示す為に催された懇談会の様子を速記にしてまとめたものであるが、その中に僅かながらとはいえ、松尾六郎の発言がある。これが実に貴重な証言である。

 私は古い方で明治三十何年からこの方で食はせて貰つて居りますが、何しろ學問も何もありませんので……若手の人は皆頭も良いし、又本席列席の方に帝都漫才の役員の方々も居られるが、私は食へんが悲しさに漫才をやつて居る方で……私はずつとエロ専門になつて居ります。この間も大森で、お巡りさんの而も偉い人ばかりの前でやりましたが、實際よくやりました。却つてお褒めの言葉を戴きました。今迄よくやつたが、かういふ面白いことをやつたのは君が初めてだと褒められました。兎に角私は頭がないですから……そのくせ今迄御上の御注意を受けた事がありません。兎に角巧く仕抜いて居ります。お巡りさんが来ますとスパット遁げますから……それは巧いです。(笑聲)實際打明けた話がさうです。大體武術の方が専門で、家内を相手に萬成座に勤めさして貰って居ります。まあいろ/\なことはお若い歴々の方が居られるから私は一つ御勘辯の程を……

(「漫才家懇談会」35~36頁)

 この証言を信じるならば、そのキャリアの長さは砂川捨丸などと並ぶほどである。明治30年代頃はまだ、円辰や順若などが現役で、「萬歳芝居」などと称して興行を打っていた時分であった。そんな事を踏まえると、その古さがよくわかるであろう。

 東京に来たのは、大正末~昭和前半だというのだから、古株もいいところである。元々は安来節や演芸会の合間で剣舞を演じていたらしく、『都新聞』(1927年6月24日号)の広告の中に、

▲帝京座 安来節万歳競演會餘興に露國舞踊ルボーフ、イゾリタ、剣舞松尾六郎、怪頭力雷音兼光、空中曲藝東富士子等出演

という記載があるが、これが松尾六郎としての初出か。長らく大和家八千代の一座を中心に安来節界隈に出入りしていた。

 1927年頃、剣舞を演ずる傍ら漫才にも着手し始めたようで、『都新聞』(同年10月1日)の「帝京座」の広告に「萬歳 松尾六郎 松葉家保子」というコンビ名が出てくるようになる。以来、剣舞を演じる傍ら、漫才師としても浅草の劇場などに出演するようになる。

 1928年には東京を代表する漫才の一組となっていた模様で、『都新聞』(1928年6月30日号)に掲載された二丁町市村座の漫才大会にも、

▲市村座 1日よりの萬歳親交記念大會に出演する関東関西の顔ぶれは
直之助、朝日、かほる、春雄、保子、六郎、源六、清、啓之助、玉春、清子、染團治、芳春、芳丸、源一、友衛、小芳、染若、初江、日出男、静子、文雄、駒千代、喜代駒、金之助、セメンダル、秀千代、秀夫、花輔、デブ、清丸、玉奴、豊丸、小一郎、愛子、金吾、力春、力松、小徳、春夫、芳郎、千代治、愛子、秀丸、茶目鶴、仲路、こたつ、夢丸

 とあるのが確認できる。この保子が敷島和歌子かどうかまではわからない。

 その和歌子の経歴も不明であるが、松尾六郎よりも1回りも2回りも年下だったようである。

 以後、剣舞を中心とした漫才を展開させ、浅草漫才の一組として奮闘をした。

 1940年に帝都漫才協会が結成された際、理事の一人に選出されている様子が『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和十五年版』にある名簿から確認できる。

 1943年の帝都漫才協会再編成の際には入会。この名簿から名前を割り出した。

 戦後も老齢ながら活躍。70過ぎても剣舞をやっていたのだから、大したものである。

松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月2週号)の中でも、健在を確認する事が出来た。

敷島和歌子 松尾六郎

六郎は財界の大先輩で舞台歴は四十年くらいになるはず。かなりの年配ながらいまだにカクシャクある剣舞を見せてそのトンボの切り方などオールドファンを喜ばせている。
往年剣舞の松尾として国守一成、寺田末次郎、五条家弁慶らと五指にあげられた大先輩で国守は箱根で遊技場の主人、寺田は鳥取で浪曲を主にあつかう興行業にと、いずれも舞台に立っていない今日、六郎の剣舞は保存芸術の価値充分。
戦後、剣舞が大っぴらでやれなかった頃は廿歳くらい若い愛妻の和歌子と「朝顔日記」など採り入れて大好評だったこともある。
関東はもちろん日本才界の奇人であり、彦左的存在。だがこの彦左衛門も寄る年波で自愛専一あまり遠い方面の仕事には行かれないから、地方のファンにはお気の毒、せいぜいいまの内にテレビにでも出演しておいてもらいたい。

『芸能人物故者芳名簿』の中に、その名前が出ているので、1981年以前に没したものと推測できる。また、大津検花奴らがハワイ巡業に行った際に付いていった松尾和歌子を、敷島和歌子とするならば、1955年以前に亡くなっていた可能性が高い。

  芸風

 波多野栄一によると、剣舞が得意だったようで、

剣舞をやる漫才で漫才界の大先輩

(波多野栄一「寄席といろもの」)

 と、記している。なお、文中の萬成座とは、女剣戟やレビューが盛んに行われていた浅草の劇場の一つであった。女剣戟は立ち廻りを眼目とするので、剣舞を看板にしたのもうなずけるような気がする。

 また、上記の証言の中にもあるように掛合や下ネタなど、所謂、古風なネタを中心にやっていたようである。それ以上は分からない。

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