青木長之助・松葉栄子
青木長之助・松葉栄子
人 物
青木 長之助
・本 名 藤井 長之助
・生没年 1918年10月19日~1989年以後?
・出身地 東京
松葉 栄子
・本 名 藤井 道江(旧姓・森)
・生没年 1924年6月4日~1989年以降?
・出身地 神奈川県
来 歴
戦後活躍した夫婦漫才師。「てんてんトリオ」なるトリオを組んだこともある。
長之助の父は青木丑之助。明治・大正年間に青木一座の看板として、浅草公園で大変な人気を博した玉乗り曲芸の巨匠であり、興行師。長之助も幼い頃、玉乗りを仕込まれたという。
その半生は『NHK聞き書き庶民が生きた昭和 第二巻』の中に、収録された滝大作の聞き取り調査が実に詳しい。以下はその引用である。
――浅草北清島町、現在の台東区東上野六丁目にも三味線漫談で活躍している青木長之助さん(七十歳、本名 藤井長之助)が住んでいる。青木さんのお父さんは青木玉乗り所属の興行師で、漫才や曲芸をとり仕切っていた。青木さんも早くから漫才の世界に入り、戦後は奥さんとコンビを組んでラジオにも出演するなど人気者であった。
六歳で大阪へ漫才の修業に
滝 青木玉乗りがあった時代というのは……。
青木 大正はじめ頃でしょう。私が生れてない頃ですからね。
滝 あ、そうか。お生れが大正の……。
青木 私は七年です。父親は明治十年です。
滝 青木さんが大正七年にお生れになった頃のお父さまは、青木玉乗りからもう飛び出しちゃって……。
青木 もうとっくに飛び出していた。そして、自分でいろんな興行を持って旅をしていたわけです。
滝 では、お生れになったときはお父さまは興行師だったわけですか。
青木 そうなんです。関東大震災のときに(大正十二年)、父親が横浜で興行をやっていたんですよね。母親は震災で死んじゃったんです。そのとき私は六歳でした。父親もちょっとけがをして働けないので、結局、芸人になったわけです。兄弟三人いましたが、妹はまだ赤ん坊でしたから、姉と私とで漫才をやったわけです。
滝 六歳で舞台へ出たんですか。初舞台ですか。
青木 初舞台です。そのときに、大阪から、私の師匠となった人がたまたま東京に来ていました。この人は大阪でセメンダルという一座(漫才師のグループ)の上のほうの人でした。この人がじゃあ俺が少し仕込んでやるからと、うちのお父っつぁんに話して、じゃあお願いします、というので大阪に行きましてね。
滝 六歳で一人で。
青木 ええ。修業ですからね。 連れていかれて、向うへ行って三年ばかり教わったりしましたけどね。
滝 内弟子みたいになったんですか。
青木 そうなんです。荷物持って、師匠が行くあとをくっついていく。
と、いう記載があるのを確認できる。セメンダルは、桃の家セメンダルだろうか、宮川小松月・セメンダルの方なのか、わからない。
内弟子生活は厳しく、「そば食うか。食いたいか」と尋ねられて、正直に答えてもかけうどんしか食べさせてもらえず、それを四日ばかり繰り返された挙げ句、師匠が「おまえも俺と一緒に並んでそばを食うようになれ」などと、今では考えられないような仕打ちや理不尽を受けて育った。
帰京後、9歳で小学校に入るが、芸人稼業の方が忙しくなって、結局、卒業することなく中退した。
以来、姉と漫才コンビを組んでいたが、1937年に出征。その時のことを長之助は、
滝 そうですか。
お姉さんと組んで九歳ぐらいのときにやられた漫才というのは、たとえばどのようなことを……。
青木 わりあい三味線がうまかったですから、歌って踊って、というようなことです。
滝 青木さんのほうは何をしたんですか。
青木 私は踊りです。 昭和十二年の夏頃に徴兵検査を受けて、十二年の暮れには召集でした。もう戦争がはじまっていましたから……。
滝 満州(現在の中国東北部)へ行かれたわけですか。
青木 いいえ、華北です。そのときの部隊長が本間部隊長です。
と語っている。戦地では、本間部隊長と中隊長に可愛がられたが、二人の好意の板挟みとなり、無理やり本部へ連れて来られたこともあるという。
その時、中隊に戻りたいと考えた長之助は、会食の時に副官におみおつけをぶっかける事によって、元の部隊に戻る事に成功した。以来、戦地を転々とした挙句に終戦。日本へ復員したという。
復員後、松葉栄子と結婚し、夫婦漫才となる。
妻の松葉栄子も経歴には謎が多いが、『芸能画報』(1959年2月号)の中に、
①森道江②大正13年6月4日③神奈川④学業を収めた後種々の職業についたが、昭和20年漫才家となる
とある。
上記の本に「芸人にしちゃったんです。家内の父親というのが芸人なんですよ。」とあるが、親の名前はわからない。芸人の家には珍しく、遊芸を習わせられることもなく、堅く堅く育てられ、大学卒業までしているというのだから大したものである。
大学卒業後、これまたハイカラな美容院で働いていたそうであるが、戦争悪化に伴う贅沢排斥運動で失業。田舎に戻ってしまったという。
1945年の終戦後間もなく、青木長之助と結婚。漫才コンビを組んで、初舞台を踏む。以下は、『NHK聞き書き庶民が生きた昭和 第二巻』の一節。
滝 結婚されたのはいつ頃ですか。
青木 兵隊から帰ってきてからです。終戦の年です。
滝 奥さんは芸人さん……。
青木 そうじゃないんですけど、芸人にしちゃったんです。家内の父親というのが芸人なんですよ。だけど家内は東京におりましてね。勤めていたんですよ。美容院をやっているアメリカ人のところへ勤めていたけど、その時分はスパイだの何だのってやめさせられて、それで田舎に帰っていた。
滝 そうすると、木馬館の二階というのは新所帯ですか。
青木 新所帯です。まだかみさんは舞台に出たこともない。木馬館ではじめて出たんですが、何もできないんです。私が一人でやると、ただ、「あ、そう」「あ、そう」ばかりいってた(笑)。そうしたら、木馬館で、これはひどいな、これでは金は払えないというんだ。
滝 だけど、奥さんは何ておっしゃってましたか。今はおやめになっているけど、無理矢理に芸人にさせられたときは……。
青木 いやがってましたね(笑)。向こうは大学出ていましたからね。こっちは……。
滝 小学校中退(笑)。
という記載がある。
1947年には既に一枚看板になっている様子が『演芸新聞』などで確認できる。
主に松竹演芸場や木馬館で活躍。このころの芸風が『アサヒ芸能新聞』(1953年12月1週号)掲載の松浦善三郎『関東漫才切捨御免』に出ている。
◎松葉栄子 青木長之助
今年の夏、長い東京生活におさらばをして故郷の鳥取に帰ったとかきいている吉本万公(立花梅奴が安来節を放送する時の琴はこの人)が相方の近松近枝と音曲をやっている時、近松が唄って男の万公が三味線を持つ。先に書いた一八歌丸のコンビもその例の一つ。長之助が三味線をポツンポツンとやって栄子が唄う。
栄子は「持病」があるようでどうもいつも弱々しい。それを長之助がかばってやって居る図は真にほゝえましい格好のオシドリであるが、せっかく爆笑の要素が随処にありながら、ドッと客が波をうたないのは平生のかかる心理的な面が長之助に影響しているのではないか。
折角客がツイて来たのだから、ここ一番もう一引きしめてと思っている内に、舞台の当人たちが先に息切れをしてしまい客の笑いを散らすようだ。
要は突っ込みが不足でそれがまことに惜しいところ。
時おりやる「女給」のネタにしても想を更に練る必要があるし現在の演出では尻切れトンボである。
なお人の考え方は十色であろうが長之助が三味線を背負うのは形が悪い(ボーイズの連中がギターを背負うので、同じ気持ちでそうしているのかも知れないが)女流ならともかく男はまあやめた方が無難。
1955年、漫才研究会発足に伴い入会。栗友亭などにも出演した。
後年、娘の加代子(1942年生まれ)にアコーディオンを仕込み、「てんてんトリオ」なるグループを組み、活動。
秘蔵の三味線を詰めて歌謡曲を弾いたり、踊りを踊ったり――と、芸達者ではあったもののブレイクには至らなかった。一時期、栄子が一線を退き、加代子と親子漫才をやっていた事もあった。真山恵介『寄席がき話』に、
次はある時は二人、ある時は三人という一家コンビの変り型をいこうか。青木長之助と栄子加代子がそれだ。長之助はかつて浅草公園で人気者だった玉乗りの青木丑之助の実子。父の丑之助は八十三才でいまなお健在。祖父の代からの玉乗師で、長之助もこの道の心得はあるという。六年間歩兵さんで華北を転戦、これも終戦で帰還し栄子との漫才を復活して大々活躍。男の長之助が三味線を持つのも変った味というところ。昭和十七年生れの娘の加代子にアコを本式に習わせて、三人組で”てんてんトリオ”となっていよいよかせぎまくった。「それがネ、どうも私より娘の方が若いし、評判もいいので、ツイツイ私は遠慮しちゃって、このごろは長之助・加代子のコンビの方が売れています。ホホホホ」と栄子が目を細めてうれしそうに笑う。いい親娘の情である。その加代子のアコの調子に合せるため、長之助は秘蔵の三味線を二寸五分詰めた。これもいい。
とあるのが確認できる。
長らく浅草を中心に淡々たる舞台を勤めていたが、いつしか加代子も栄子も一線を退き、長之助自身は三味線漫談に転向した。
没年は不詳であるが、滝大作の聞書きが出たのは1990年。この時には長之助は無論、長之助の口から「妻は健在」というような言葉があるので、二人とも平成に改元するころまでは生きていたとみるべきだろう。
娘の加代子はまだご健在である可能性が高い。情報提供求ム。
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