桂金吾・花園愛子
桂金吾・花園愛子
(引用 國學院大學 研究開発推進センター)
桂金吾・松本アオバ(中央二人目・三人目)
人 物
桂 金吾
・本 名 稲田 清次郎(後年、浅井清次郎となる。清治郎とも書く)
・生没年 1899年2月9日~1981年8月18日
・出身地 京都
花園 愛子
・本 名 稲田 みさ
・生没年 1906年3月15日~1941年7月22日
・出身地 熊本県肝属郡大根占(現・錦江町)
来 歴
花園愛子は、靖国神社に祀られている唯一の漫才師である。そのせいか、漫才史のみならず、芸能史、戦争史などにも一大事件として度々取り上げられ、悲運の漫才師としても知られている。
もっとも、唯一かと言われると疑問があって、靖国神社で祀られている英霊の中には無名の漫才師もいるはずである。そう考えると、「漫才師として国の為に尽くし、漫才師として国の為に殉じた」という方が正確ではないだろうか。
だが、靖国に祀られているのは紛れもない事実であり、漫才師の芸名が世間に知れ渡ったところを見ると、漫才のために生き、漫才と国の為に殉じたといってもいいのかもしれない。
花園愛子の戦死と当時の背景や戦地慰問の実情などを書き綴るだけで、相応のものが出来そうであるが、今回は思想や敵味方云々を出来るだけ抜きにして、このコンビの来歴や動向を記したいと思う。一部、現代にそぐわない言葉や表現が出てくる事があるかもしれないが、一つの歴史的な事象としてご了承願いたい。
金吾は京都の染物屋の家に生まれ、裕福な家庭に育った。青年期に親族の反対を押し切って芸人になったという。
芸人になった後の詳しい動向はよく判っていないが、太神楽の丸一を経て、三代目春風亭柳好の門下に入って、噺家をやっていた事は確定事項である。
1924年11月19日の『都新聞』の顔ぶれにそれらしい名前があるが、亭号不明なため、判別がつかない状態にある。その前後で花園愛子と結婚した模様か。
妻の愛子は鹿児島生まれ。漫談家で後に追悼記事を書く事となる西村楽天が執筆した『楽天従軍記 続』によると、市来加之助・マツの子として生まれる。旧姓は市来みさという。
3歳の時に加之助が死に、8歳でマツが死去。天涯孤独となり、親類に預けられたという。
1917年3月、地元の大根占尋常小学校を卒業後、旅回りの一座で芸を磨き、名古屋の劇場で女道楽としてデビュー。さらに大阪に行って吉本興業に入った。
ここで金吾と知り合ったそうで、さる興行主を仲介で結婚。夫婦になった。
1920年代後半に、一枚看板をあげている所を見ると、漫才師になったのは相当早かったのではないか。
その後、役者の花見常夫(大倉常吉)と兄弟分となって、花見一座に入ったものの、一座解散と共に安来節の山崎政子一座に移り、1926年頃まで、一座の鳴り物を担当していた。
1926年7月24日付の『日刊ラヂオ新聞』を見ると、
「安来節(午後八時頃放送)太鼓 桂金吾 鼓 多納花子 尺八 佐々木清太郎 三味線 山崎政子」
とある。『読売新聞』には一座の写真が載せられていて、若き日の金吾を見る事が出来る。
また、その頃から夫婦漫才としても出るようになり、『都新聞』(1926年6月19日号)に、
「▲浅草劇場 19日より萬歳花園愛子、桂金吾加入」
という記載がある。
1927年、旧知の大倉啓子の紹介で、大和家三姉妹の一座に出入りするようになる。
1927年3月9日から御園劇場に出演、『都新聞』(1927年3月9日号)に、
「▲御園劇場 9日より関西萬歳、花園、愛子、桂金吾加入」
とある。関西萬歳と評されているのは、関西から来たからであろうか。
以降、1929年4月まで積極的に出演をした。この頃、上京をしてきた松鶴家千代若の面倒を見ている。
1928年には人気漫才師の一組に数えられるようになったと見えて、同年7月に開催された市村座の萬歳大会に出ている。以下は『都新聞』(6月30日号)の掲載の広告より引用。
▲市村座 一日よりの萬歳親交記念大會に出演する関東関西の顔ぶれは
直之助、朝日、かほる、春雄、保子、六郎、源六、清、啓之助、玉春、清子、染團治、芳春、芳丸、源一、友衛、小芳、染若、初江、日出男、静子、文雄、駒千代、喜代駒、金之助、セメンダル、秀千代、秀夫、花輔、デブ、清丸、玉奴、豊丸、小一郎、愛子、金吾、力春、力松、小徳、春夫、芳郎、千代治、愛子、秀丸、茶目鶴、仲路、こたつ、夢丸
1929年以降は独立したと見えて、桂金吾一座を結成。東京に漫才ブームが来る前から活躍した。
1929年9月6日には夫婦でラジオに出演。吉井勇のラヂオ風景『走馬燈』という浅草の芸を訪ねるスケッチ風ドラマの中で、「高級万歳」の役として出演。抜粋ではあるものの、番組中で萬歳を披露している。以下は『日刊ラヂオ新聞』(1929年9月6日号)からの引用。
◇…萬歳に至つては更に観客の熱は高く煙草づくしでスタヂオ内をすつかり煙にまいてしまひ小原節で『きたこらさあさのどつこいしよ』にうつると観客側は『やれこらさのあーのどつこいしよ』といや景気のいゝのなんのつて
以来、浅草の劇場を中心に寄席や大舞台などにも出演するようになる。また、吉本興業と専属契約を結び、花月系の漫才大会にも出演している様子が伺える。
落語の語り口をペーソスに、おっとりとしながらも粋な話芸と漫才で人気を集めた。その当時の人気に影響してか、『夕立』『満蒙大根』など、数枚のレコードを吹き込んでいる。
1933年7月、太陽レコードから「軍縮会議・飛行機料理」を発売。1933年9月、太陽レコードから「夕立・満蒙大根」を発売。
1936年1月、テイチクから『珍軍縮会議』を発売。吉本のタイアップでの発売であった。
1936年3月、テイチクから『我若し戦はば』を発売。
1941年6月19日、陸軍恤兵部慰問団として東京駅へと出発。中国へと旅立った。
7月22日、桂金吾を団長とする慰問団の一行は、斉源を出発し、陸軍歩兵第二百二十連隊と共に、江南省北部の黄河支流を移動し、次の慰問先へと向かっていた。その昼頃、中国軍の奇襲を受けた。以下はその関係資料の引用。
慰問団の遭難
七月の暑いさかり、内地よりはるばる最前線まで、陸軍恤兵部演芸慰問団がやってきた。その団長は帝都漫才界の重鎮、桂金吾(浅井清次郎氏)で、以下同夫人の花園愛子(稲田みさ氏)ほか、漫才(夫婦)二人、奇術(女)親子三人、声帯模写(男)一人、浪曲(男・女)二人の十名であった。
『歩兵第二百二十聯隊』(119~120頁)
北京から開封の師団司令部、陽武、新郷、汲県、焦作、修武等を慰問し、歩兵第二二一聯隊本部(小林部隊)の済源も終り、さらに封門口から大店の警備隊を慰問する予定で、七月二十二日八時半、四輌編成のトラックで済源を出発した。
先頭車には、軽機を有する護衛一個分隊と、功績事務のため出張中の足立准尉以下十余名(第五中隊)、大店第二大隊本部へ公用出張中の深瀬少佐(旗手)と、随行の兵数名が乗車し、団長夫人はその助手席に位置した。
後続車には、懐慶野戦病院より退院して、大店へ戻る岩瀬少佐(第二大隊長、第二二〇聯隊編成時の通信中隊長)と同行の斎藤中尉、討伐編成要員としと大店に集結する無線一個分隊、桂団長ほか、団員九名が乗っていた。
やがて、封門口に通ずる峠にさしかかり、両側は丘となって、その谷間の道路を進行中、突如!およそ二〇〇名ほどの敵兵の襲撃を受けた。
まず、先頭車が被弾して急停車をしたため、後続車は強行突破できず、全員が飛びおり、車輛を楯にして河原へ散開して応戦するが、深瀬少佐は車上で頭部貫通銃創を受け、壮烈な最期を遂げ、その他も死傷者が続出した。
助手席の団長夫人は、負傷した運転手を抱えて、下車しようとした刹那、右大腿部に二発の散弾を受け、骨折して歩行不能となり、車内で苦悶する。これを見た団長以下数名は、弾雨を冒して接近し、車内より救出した。
ひじょうに不利な状況であったが、岩瀬大隊長の冷静にして沈着な戦斗指導により、救援隊が到着するまで、じつに四時間にわたる戦斗がつづいた。
この間、団長夫人は応急手当もままならず、ついに出血多量で落命した。
慰問団の人々は、戦死者の銃を執り、また手榴弾を投げながら、近寄る敵兵と交戦し、また奇術の松旭斉清子、小清、清美の親子は、弾の中を、負傷者を曳きずって、手当てをしていたが、誰もが最後の覚悟は決めなければならないほど、緊迫していたのである。
この戦闘で、深瀬少尉以下十三名が戦死したが、戦死者の中に、転属してきたばかりの捜索聯隊出身の兵二名も含まれていた。
その戦死はたちまちニュースとして取り上げられ、彼女は一躍英雄として取り扱われるようになった。亡骸はそのまま持って帰れないので、戦地で葬儀が行われた。先述の『歩兵第二百二十聯隊』の中には、
団長夫人は、当時三十六歳であった。名誉の戦死という取り計いを受けて、帰途、北京では、北支派遣軍司令官岡村大将列席のもとに、官民合同の葬儀が、厳粛に行われた。
と、詳しい様子がつづられている。
慰問終了後、帰国した一団を待ち構えていたのは、彼女の死を聞きつけた軍部や官僚、マスコミ、一般民衆であった。後年、金吾はインタビューの中で、
――内地ではどうでしたか?
『大衆芸能資料集成 七巻』
金吾 東京駅に着くと駅長さんから助役、警察、軍隊の方まで出迎えて大変な騒ぎでした。北京でも請われて分骨し慰霊していただきましたが、帰ってからは合同慰霊祭を盛大にやっていただき、八月の告別式には陸軍大臣東条閣下の奥さんもいらして、娘にお言葉をかけてくださったのには感激しました。
と、答えている。その待遇は当時の漫才師にしては破格の待遇であったのは言うまでもない。また、花園愛子の戦死を伝えた新聞記事に以下のようなものがある。
「妻の遺骨携へ前線慰問 郷里の愛娘から激励の手紙」
【開封二十九日発同盟】去る二十二日山西省南部苗庄附近において挺身慰問の華と散つた陸軍省派遣慰問團一行の花園愛子事稲田ミサ子さん(浅草出身吉本興業専属)の告別式は廿七日盛大に執行されたが、ミサ子さんの愛娘トシ子さん(金龍國民學校五年生)より「お母さまの死は立派ですトシ子にかまはず慰問を續けて下さい」との健氣な激励電報を受けた父親桂金吾こと稲田清次郎氏は「慰問報国」の意を決し亡き愛妻の骨とともに皇軍慰問の旅をつゞけることになつた
『朝日新聞』(1941年7月30日号)
二十九日夜淺草區田島町四の留守宅を訪ねると、金龍國民學校五年生のトシ子さんは亡き母親の寫眞を飾つた佛壇の前で
やさしいお母さんでした、たつた今戦地からのお便りがあつた所です、お骨が歸つて来たらお迎へに行きます
と涙も見せずけなげに語つた、なほ愛子さんの葬儀は芸能文化聯盟の手で遺骨到着次第青山斎場で行はれる【寫眞は佛前で語るトシ子さんと(円内)慰問戦線に散つた葉母愛子さん】
また、このような記事もある。
「死の慰問の遺骨歸る」
『読売新聞』(1941年8月29日号)
北支前線の慰問中去る七月廿二日胡山嶺麓で敵匪の襲撃をうけ皇軍慰問の華と散つた漫才師花園愛子こと故稲田みささんの遺骨が廿八日午後夫君稲田清次郎さんや僚友に護られて東京へ歸つてきた
遺骨は陸軍省恤兵部で懇ろな焼香をうけた後三カ月ぶりに浅草區田島町四の自宅に歸つた
表現の角々に如何にも軍国主義という趣がある(戦争にまだ余裕があった頃は)のはいうまでもない。
不幸にも、こうして戦場で散った稲田みさ夫人のために、帰京後の九月一日、浅草本願寺において、帝都万才協会葬(註・原文ママ)が盛大に営まれ、また陸軍省恤兵部監藤村大佐からも、鄭重な弔辞がおくられた。
『歩兵第二百二十聯隊』
と、あるように、無言の人となって帰国した花園愛子の亡骸は、浅草の東本願寺に送られたという。その葬儀には三千人余りの弔問客が訪れ、その様子は当時のニュースとして大々的に取り上げられた。上記を含めた当時の新聞を見ると、如何にも悲劇というように演出されている。
その後、金吾は菅原家由良丸と組んでいた松本アオバという女とコンビを組みなおした。
引き続き舞台に出ていたが、1943年2月、南方慰問へ行動中、米軍の潜水艦に輸送船を沈められ、海で溺死をしかける一件(座員の一人が死亡)もあった。
戦後、昔馴染みの柳家三亀松のマネージャーをしていたが、こちらも辞めて完全に芸能界から離れた。後年、「浅井うた」と再婚して、浅井清次郎となり、伊東市に転居。同地で置屋を営んだ。
晩年は「伊東観光事業株式会社」を営む傍ら、伊東芸妓組合長を務め上げ、その温厚な人柄から多くの芸妓や関係者から慕われて、平穏な晩年を送った。
一人娘の稲田トシは、先代の古今亭志ん馬に嫁いだ。
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