朝日日出丸・日出夫

朝日日出丸・日出夫

日出丸(右)・日出夫(左)

 人 物

 朝日あさひ 日出丸ひでまる 
 ・本 名 西川 榮次郎
 ・生没年 ??~1981年以前
 ・出身地 奈良県

 朝日あさひ 日出夫ひでお 
 ・本 名 宮川 照夫

 ・生没年 ??~1960年頃?
 ・出身地 東京

 来 歴

 古さだけで行けば、喜代駒、染団治に次ぐ東京漫才の先駆けの一組であり、昭和ひと桁でラジオ出演を遂げ、寄席や劇場にも進出したほどの人気者であったという。

 だが、その割には漠然としたことしか判っていない(特に戦後)ので、実に厄介な存在である。ここでは一応判明した事のみ、書き綴っていく。因みに朝日日の丸は、日出丸とよく似た名前をしているが、別人である(関係者らしいが)。

・漫才以前

 前歴が完全にハッキリしているわけではないものの、一応の情報は当時の新聞や雑誌から確認する事が出来る。

 日出丸は奈良県の名家の出身で、「都新聞」(1935年3月18日号)の中に、

色物界

 ジヤズ漫藝の朝日日出丸きのふ日比谷公會堂で日出夫と共に演藝大會を催したが、入場料の上り高の中から、會場費と、応援出演者の謝禮を引いて、残り全部を、彼の出身奈良縣の母校へと寄付することにしたのは感心な話だが、奈良の相當の家に生れた日出丸が、藝事が好きで家を飛び出し、今では勘當同然の身となつてゐたのが、今度の善行ですつかり實家でも喜び母校でも殊勝な卒業生を出したのを誇りにしてゐる有様、放蕩息子日出丸のメイセイ、俄然奈良に高まつたとは、目出度し目出度し

 なる記事が確認できる。「母校」という所を見ると、当時の漫才師としては珍しくまずまずのインテリだった模様か。

 一方の日出夫の事はよく判っていないものの、東京生まれだったらしく、「都新聞」(1935年8月6日号)に

「漫才銘々傳」(11) 朝日日出夫と同日出丸(上)

東京方の漫才で輝かしい存在の日出夫、日出丸も出身を洗ふと、日出夫は東京だが、日出丸は大阪だ

 とある。日出丸は元々大阪にあった「助六」というカフェー(今ならばホストとでもいうべきか)の人気者として君臨しており、東京から流れてきた日出夫と意気投合して、上京。

 当時、東京で人気を集めて居た漫才師・中村種春の門下に入り、「中村種太郎・種次郎」という名前で漫才を組んだ――のが、事の発端である。

 このコンビが成立した顛末と苦行時代は上記の「漫才銘々傳」「都新聞」(1935年8月6・7日号)に詳しいので、少し長くなるが、上下ともに引用しておこう。これで日出丸・日出夫の前歴の説明は殆ど事足りると思われる。面倒くさければ飛ばしてください。

 まずは上の巻。

「漫才銘々傳」(11) 朝日日出夫と同日出丸(上)

東京方の漫才で輝かしい存在の日出夫、日出丸も出身を洗ふと、日出夫は東京だが、日出丸は大阪だ、日出丸は一昔前まで、東區(註・大阪市?)では一寸聞えた助六というカフェーの主人公だつた、そこへ東京から日出夫が落ちて行つて、一緒に仕事をするようになつたのが両人抑々の、といふ次第であるが、その漫才入の一席はまるで嘘みたいな話だ、両人気の會うにまかせて「どうせ何かやるならば花のお江戸だよ」テナ工合に志を立て、簡単に東京へ出てきた日出丸にしては何かウマい事があつたならやつてもいゝ、無けりゃ大阪へ帰ればもと/\なんだからといふ氣持ちだつたのだが、上京の際に知合いの神戸の興行師樋口某から當時浅草で第一館をやつてゐたその親類に宛た手紙を貰つて来た、ところがこの手紙が「かういふ二人が上京したら宜しく頼む」と至極簡単な上に、汽車から下りた二人を見ると、助六といふ文字の入つた派手なちりめんの浴衣姿だつたので、テツキリ漫才師と思ひ込んだ、興行師から興行師への手紙を持つて、服装がこれではさう思ひ込むのが當り前の話で、それで「師匠、いつから舞臺に出てくれます」と来た二人がいくら「さうぢゃない」と言つても「御冗談でせう」と背き入れない、そこで當時女流漫才で知られた中村種春が現れて「知らないなら私が教へて上げやう」と面喰らつてゐる二人にいろんな藝事を仕込み出した、日出丸は大阪時代に三味線を稽古に通つてゐたので、この方に苦勞はなかつたが、安来節に悩まされ、日出夫は先づ楽屋で太鼓ばかり太鼓ばかり叩かせられた、そしてこの上に「不如帰」といふのを教へて貰つて、やつとこれが物になりかゝつた頃に、二人は加藤瀧子、玉子家末丸の一座に入れられて、遠く北海道へ流されて行つた、その時二人は中村種春の一字をとつて種太郎種次郎といふ藝名だつた、最初に開けた小屋は函館の帝國館だつた、二人にとつて舞臺らしい舞臺はこゝが最初と言つていゝもので、客の顔が判らない位にブルブル顫へて、いとも怪しげな舞臺を見せたものだが、顫へるのにはもう一つ原因があつた、それはもう十一月近いといふのに、二人は舞臺も楽屋もたつた一枚のニコニコ絣の単衣で通してゐたからだつた、冬の訪れるのが早い北海道には、間もなく白いものがチラつくやうになつた

 続いて、下の巻が次の日の紙面に掲載された。

「漫才銘々傳」(12) 朝日日出夫と同日出丸(下)

遠く離れた土地で、而も単衣姿で顫へてゐる所へやつて来た雪なんぞ、凡そ深刻以上のものがあつたらうが、その上に座長格の加藤瀧子といふのが、女だてらに人使いが荒かつたので、まことに憂き艱難を嘗めさせられた、白いものがチラつく中を、彼女はこの単衣着連中に「それ酒買つて来い」の「それ豆腐を買つて来い」のとやつたのだ、昨日まではカフエーの主人公だつたものとしては餘りに餘る今日の境涯だが、そのため日出丸は遂に腸を患つて寝ついてしまつた、相棒日出夫の悲嘆狼狽は言ふも更なりだが一座の玉子家末丸夫妻が迚も親切な人で、親身も及ばぬ位に面倒を見てくれたのでやつと息つくことが出来なt、夫はこの病氣は冷えが原因だから、先づ温めなければならないと、早速自分が肌に着けていた赤毛糸のシャツを脱いで着せてくれた、日出丸は生涯を通じて、この時程人の情けに泣いた事はないといふ、さればこそ、彼は、今舞臺に使ふ幼稚園の先生の時などにカブるあの珍妙な手製の鬘の芯には、このシャツが畳んで入れてあるのださうな、いゝ話ではないか、そして彼は末丸は既にこの世に無いが、せめて妻女に會つてその時の恩報じをしたいと機會ある侮に行方を探してゐる、さて日出丸の病氣も幸ひに癒り、それから小樽、札幌其他各地を巡り、それと同時に二人の藝もどうやら藝らしいものになつて、北海道で早くも四十餘日を経てゝ、すつかり冬になつた師走に、懐かしの東京に歸つて来た、四十日稼いでも、その収穫はやつと身體に着けるものが、単衣ではなくなつた位で上野に着いたら文字通り無一文といふ有様だつた、間もなく浅草の凌雲座に出るやうになつた、そしたら北海道の旅で嬉しくない扱ひをした加藤瀧子と顔を合せた、舞臺は瀧子がトリで、秀丸たちは中だつた、最初の日に「お前さん達が中だつて、フン」と瀧子が嘲笑をなげたので、二人は石に齧ぢりついても、この漫才で名を成さうと決心し合つたのだつた、そして相變わらず中村種春を師匠として精進していたが、その後大阪に地震があつた時に、久しく郷里を棄ててゐたので、これを機會に一度歸つて来たいと言つたのが、すでに一本立出来るやうになつた二人の獨立と師匠は見てとつてトタンにその間柄がマヅいものになりそんな事から日出丸は大阪にも歸れずと言つて種春の所にも居れず、二人は別れ別れに放浪生活に落ちて行つた、その後再び相會ふや、今度こそはどんな事があつてもこのコンビは割るまいと、誓ひ合ひ、この時三味線の日出丸に對し、日出夫は大枚一圓五十銭を投じて古道具屋よりヴァイオリンを求め、これを我流で弾き通したのが、二人の賣出した最初だ

 ここで紹介されている玉子家末丸とは、荒川末丸の事ではないか。もしそうだとするならば、末丸は1935年以前に亡くなったものという仮説が成り立つ。

 1928年頃、コンビを再結成し、「朝日日出丸・日出夫」と名乗る。日出丸の三味線、日出夫のヴァイオリンを合奏する漫才でたちまち人気を得た。また当時流行り始めていたジャズを取り入れた漫才を展開した。『演芸画報』(1934年1月号)掲載された、豆九樓「日出丸と大洋」に二人の芸風が出ているので引用しよう。

高級萬歳と旗幟を掲げた朝日日出丸、日出夫の兄弟で自家用(?)の自動車の後へ、日の出を赤く現して墨で日出夫日出丸と書き、こいつをブツ飛して駈持をして居るなどは萬歳屋らしい宣傳さ。産婆と書いた鞄を自転車へ結びつけて飛んで行くミス、サンバ日本とを得たんだらう。兄貴の日出丸はゾロリと縮緬仕立で三味を弾き、若い日出夫は瀟洒な洋服姿でヴァイオリンの合奏、苦み走った好男子だ。釜やフライパンなどの勝手道具を伴奏に映畫物語をやれば、日出丸は「時間の都合をございまして」と裾を捲つて飯茶碗大の、腕時計ならぬ脛時計を見るなど常に新味を漂はせてお臍の宿替をさせて居る所は、兎に角「高級」に値するものだね。

 1929年頃より、寄席へ進出。喜代駒、染團治、金吾、福丸・香津代などと共に貴重な寄席の漫才として活躍。1930年代に入ると、弟子も増え、朝日一門というべきような勢力も出来た。

 1935年頃、日出夫が神経衰弱を病み、活動が停滞する。間もなく寛解したものの、これから先は全盛のような覇気が無くなってしまった、という。

 神経症になった理由が、『都新聞』(1935年10月22日号)の中で、怪談話っぽい感じで紹介されている。

崇った大石の怪
漫才コンビを悩ます  精神病院への一歩前
朝日日出夫の奇談

一年越しの神経衰弱が昂じて、この夏以来舞臺を休んでみた漫才の朝日日出夫、草津温泉で暫く遊んだら、どうやら快くなつたので、歸つて来て丁度席へ出たらトタンにブリ返して文字通り頭も上らぬ病状に陥ったのが先月の事、方々の醫者にも診て貰ひ、毎日氷の十貫目以上も使つて療養これ努めたが、一向に快くならない、どころか本人は日増しに頭が重い/\と悲痛に訴へるので、これはどうしても重い脳病だらうと言ふ事になって、病院に送られようとした間際に数を見せたのが女道楽の大和家登茂江の阿母さんで、事の次第を聞くや「それはきっと何かの祟りがあるのかも知れないから、これから直ぐ行つてうかゞつて貰つてらつしやい」と勧められて、相棒の日出丸が飛んで行ったのが、鉱ヶ淵にある効験あらたかで知られる大師様、そしてこゝに仕へるお婆さんによくうかゞつて貰つた結果判つた祟りの次第といふ のはかうである。それは日出夫、日出丸が住む下谷山伏町の家は去年それまでカフェーだった店を改發して喫茶店にしたが、その工事の時に土臺その他で二百貫ばかり不用になった石が出た、それを無造作に軒下の空地に積んで置いたのだが、それが何ぞ變らん、この場所は金神様のおはす方位で金神様と言えば「その所に向って建築、土工を起す時は必ず害をなすぞよ」といふ恐ろしい神様であり、これが その時せつせと石を擔ぎ出して積んだ日出夫の身に現れたものとの御宣託なので早速歸つて石を除いたところが、病人の脳を厭してゐたものはその夜のうちに拭はれて、翌日からは二人前の飯も平げるといふ回復振り、これには病人は勿論、周囲の連中が今更のやうに驚いて、早速あらためて数日に亘つてお祀りをしたといふが、これが去年改築して以来丁度一年目の十月なのも不思議、そして日出夫、日出丸は幾月振りに先日から金龍館の舞臺に出てゐるが、こゝもう一つ彼等に因縁を感じさせてゐるのは、生命の障害物を除いてくれた鐘ヶ淵の大師様に行くべく勧めてくれた大和屋登茂江の母といふのは、先年登茂江が遠くの巡業の時にたゞ一人家に残つて盲腸炎を患つて危かつた際、日出夫、日出丸の二人が入院料、手術料まで工面して病院へ擔き込み、生命を取りとめた老父のその配偶者で、かうなると登茂江一家と漫才朝日組とは更に生命の助け合ひをしたといふ事になり、奇しきもあるものかなと、今色物界で評判だ

 1938年9月、コンビを解消。

 この顛末が『都新聞』(1938年10月6日号)の「呑気な商賣に悩み在り 漫才に夫婦別れ續出 笑の世界に笑へぬ悲劇」及び同紙「トリオが演ずるスピードアップの漫才劇 あきれた観劇記」(10月7日号)に出ているので引用する。

ジャズ漫才で賣つた朝日日出夫、同日出丸の組があり、これは先月、これまで十年に亘るコンビを敢然と断つて日出丸の方は弟子の日の丸を二代目日出夫に仕立て、同じく弟子の日出若と共に、今度はコンビならぬトリオを組んで、新らしいジャズ漫才に踏出した

(10月6日号)

 朝日日出丸、日出夫、日出若のトリオといつても、これまでの日出丸、日出夫のコンビに、新しく日出若といふのが一枚加はつた、といふのではありません 日出丸こそは、今までのあの日出丸に違ひありませんが、日出夫の方は二代目日出夫で、あの永年賣つた初代(といふのも仰々しいが)日出夫は都合あつて夫婦別れをして去つた事は演藝而既報の通り、そしてこれまでの弟子の日出丸が二代目日出夫を襲つて、それにもう一人役者上りの日出若が加はり、二人漫才行詰り打開の意味もあつて新形式の三人漫才に進出したのですが、このトリオとかういふ次第です。

(10月7日号) 

 日出夫は、弟子の日の丸に二代目日出夫を襲名させ、同じく弟子の日出若と共にトリオを組んだ。トリオ漫才として、引き続き寄席や劇場に出演。

 日出丸は、堅気になったらしく、『都新聞』(10月7日号)掲載の『トリオが演ずるスピードアップの漫才劇 あきれた観劇記』にも

ところで日出夫は漫才稼業に見限りをつけて、今は何處やらで半堅気の商賣を始めたといふが、その詮議立てはこゝでは無用として……

 とある。

 戦時中、日出丸の元に、新興演芸部のスカウトが来たものの、これは断ったと見えて、東京を根城に活躍を続けた。『都新聞』(1939年5月12日号)に、

「尚劇場関係では朝日日出丸トリオにも話を掛けたが、これは不調に終つた」

 という記載がある。

 1943年、帝都漫才協会発足の折には、日出丸は第一部の幹事に就任。日出夫も引退したというくせ、全芸部に名を連ねている。ただ、本名が違うため、同名の別人の可能性も否定できない。

 戦後一時期、福島の須賀川にいたらしく、1946年4月、大内新興化学の創業式に演芸大会を提供――と『須賀川市史5』の中にある。

 その後、廃業していたが、1953年頃にカムバック。日出丸は再び「日出丸ショー」を起こして、寄席や巡業などに出演。

『毎日新聞夕刊』(1956年7月11日号)の「寄席の話題」という記事に、

色物では、終戦とともに寄席から姿を消した漫才の朝日日出丸が、この春、十一年ぶりに高座にカムバックして、ずっと鈴本で続演しているのが話題だ。
女ばかりの演芸のリーダー、紅美千代らと組み、三味線、アコーディオン、ギターで四人結成の「日出丸ショー」を始めている。次々と新しい台本を用意して、一生懸命の熱演が結構受けている。

 とあるのが確認できる。

 1950年代後半まで、その名前を見つけることができる。最後は日出丸ショーを解消し、「紅美ち代」という女性とコンビを組んでやっていた。

 但し、漫才研究会設立にも落語協会・芸術協会にも参加していないせいもあってか、この辺りから消息が途絶えるようになる。

 1960年代に入るとその消息も一切わからなくなる。遺族がいたのだが――

コメント

  1. まつーら より:

    朝日日出夫の孫です。
    祖父の写真が見れて嬉しく思いました。

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