青空南児・北児

青空南児・北児

南児・北児(右)

初代北児(右)

 人 物

 青空あおぞら 南児なんじ
 ・本 名 鈴木 喜多夫
 ・生没年 1927年9月19日~?
 ・出身地 東京 稲荷町

 青空あおぞら 北児ほくじ
 ・本 名 有山 信男
 ・生没年 1937年2月5日~ご健在?
 ・出身地 東京 池袋

 青空あおぞら 南児なんじ(2代目)
 ・本 名 塙 健二
 ・生没年 1934年~?
 ・出身地 東京 稲荷町

 青空あおぞら 北児ほくじ(初代)
 ・本 名 有山 信男
 ・生没年 1937年2月5日~ご健在?
 ・出身地 東京 池袋

 来 歴

 青空南児・北児は戦後活躍した漫才師。コロムビアトップ・ライト門下生で、師匠譲りのしゃべくり漫才を得意とし、前途を期待されたが廃業。南児・北児ともに二代存在するが、二代目の南児・北児は漫才界を離れ、実業家として成功を収めたという。

 青空南児の経歴は、真山恵介『寄席がき話』に詳しい。

コンビ替りで人気が出たのにもう一組青空南児・北児がある。台東区稲荷町で香料会社の社長を父にして生れた南児は、香料なんていう優しい家業と反対に、質実剛健の快男児。例の茨城の内原訓練所を経て満州の義勇隊員となり、後に羊、牛、豚などの家畜を育てて大曠野を駆け巡った。以下終戦、帰還、漫才の順。

とある。また『芸能画報』(1959年2月号)には

南児①鈴木多喜夫②昭和2年9月19日③東京④満洲開拓義勇隊、宮内庁を経験演劇で活躍後現在に至る 

と記載されている。変わり種の経歴の持ち主だったようだ。30近くになってコロムビアトップ・ライトに入門。

 ライトの運転手をする傍らで、兄弟弟子とコンビを組んで「青空北児・南児」を結成。しかし、この初代北児という人は謎が多くわからない点が多い。上に乗せた写真が唯一の偲ぶ草である。

 1957、8年頃、後輩の有山信男とコンビを組み、再び「青空南児・北児」を名乗った。

 相方の北児の経歴は当人から直接うかがうことができた。

 北児こと有山信男は、池袋生まれ池袋育ちの池袋っ子として、父・清、母・ヒデの四人兄弟の三男として出生。父の清は鉱山技師をやっていた。

 敗戦後の混乱と青春期特有の屈折や挫折を味わいながらも大きくなり、中学卒業後、当時の京橋化学工業高等学校(後の東京都立羽田工業高等学校)に入学したものの、勉学に身が入らず、2年で中退。

 高校中退後、関西へ移住。神戸港で人足・荷揚げの仕事をしながら、関西喜劇の大御所、曾我廼家明蝶に師事。本名の信男から「曾我廼家信蝶」と名乗る。

 また、この頃、志賀廼家淡海一座にも出入りしていた、とご本人の証言。ただし、淡海は1956年に亡くなっているので、在籍したのはわずかな期間であったという。

 それでも舞台作法やルールなどはみっちりと仕込まれ、後々役立つ事となった。また滝一平の一座にも出入りしていた。

 19歳の時、「喜劇は、二十過ぎてやる仕事ではない」という決心をし、人伝を頼りにコロムビアで斡旋をやっていたという岩田善六郎と知り合い、帰京。

 磐田から水車プロダクションと、売り出しの漫才師、直井オサム・大沢ミツル(後のピーチク・パーチク)を紹介されて芸人となった。

 彼らの一門に収まるかと思ったが、有山青年は青空一門を希望。オサム・ミツルはコロムビア・ライトを紹介してくれ、彼の弟子になった。

 有山氏いわく「ライト先生は常識人でやさしかったんですが、どことなくケチで飯をおごってくれなかったり、おごってもラーメンだったり、と良くも悪くも堅実でした」とのこと。

 そのため、のちにコロムビアトップと出会い、トップと距離を縮めるようになった。

 また、『芸能画報』(1959年2月号)によると――

北児①有山信男②昭和12年2月5日③東京④劇団「民の会」関西喜劇を経漫才を修業現在に至る

 師匠譲りの明るい漫才を得意とし、注目を集めた矢先にコンビ解消。

 相方の有山氏(元・青空北児)曰く、「南児さんは障害のある人に、ちょっかいを出したか、手を出したかで、問題になって、一門からクビになりました。」との事。

 以後の消息は不明。

 相方に去られた北児は兄弟子の青空うれしのあっせんで、うれしの同級生・塙健二とコンビを組み、「二代目青空北児・南児」を結成する。

 二代目南児は、うれし氏の証言で判明した。

 彼の実家は不動産業を営んでいたそうで、裕福な家庭であった、と旧友の青空うれしの証言。実際調べてみたところ、駒沢で「世田谷住宅社」なる不動産業を展開していた模様。 

 駒沢大学付属高等学校に進学し、同校で青空うれし、黄金竜尾と同級となり、悪友となる。

 生時代は悪戯をして怒られたり、学校の名義を勝手に借りて、青空うれしと共に東北を旅して、停学処分を受けたり――と逸話の多い学生だったようである。

 家庭の事情で、大学には進学せずに普通に働いていたが、中年になって芸人を志すようになった。踊りもしゃべりも達者だった事もあり、一足先に芸能界に入っていた友人の青空うれしを頼って漫才界入り。

 うれしの紹介で、相方と別れたばかりの青空北児とコンビを組んで、「二代目青空南児」を名乗る。

 コンビで数年活動したものの、余り大きな活躍もないまま解散。芸能界から退き、会社を受け継いだという。後年は宅地建物取引業者の免許を取っており、不動産屋として余生を送った模様。

 うれし氏曰く、「本当にしゃべりもうまいし、踊りや唄の心得のある、面白い奴だったけど、北児との相性がよくなかったのと、芸人気質の持ち主ではなかったから、結構早くに辞めちゃったよなあ」との由。

 北児・南児解散後まもなく、有山は作詞家の首藤正毅(後に一代のぼると改名)の紹介で、流しをやっていた坂本昭道とコンビを組むこととなり、コロムビアトップ門下へ正式に移籍、師匠の命名で「青空水星・木星」と改名。

 北児が「青空水星」、坂本が「木星」であった。

 この後、「水星木星」コンビで、数年漫才を続けたが、パッとすることなく解消した。余談であるが、相方の木星は諸事情あって、コロムビアトップに破門され、Wけんじ門下に移籍、「Wエース」を結成、「丘エース」として売り出した。

 水星・木星コンビ以後は、漫才師から一線を退き、マネージャーに転身。浅草の小山芸能へ出向いて、マネージャー業や興行の勉強をし、師匠トップのマネージャーとなった。

 長らく師匠について回り、1974年の参院選出馬にも関与。師匠の右腕として働いていた。トップの仕事、出馬や雑用はすべてこの有山氏が手掛けていたという。

 長年信頼関係を築いていたものの、1986年3月19日、突如師匠から破門の手紙が届き、マネージャーを解雇される。

 本人曰く――

「手紙で破門を通告するというのが許せなかった。師匠の小心さというか、狡さというかね。議員という立場であったのも、理由の一つでありました。法律を作る人間が解雇手続きも取らずにいきなり破門するとは何事だというので……当然納得できないから師匠と喧嘩する事になって、揉めに揉めた末に三百万円の退職金で手を打つことになりましたよ。青空一門の結束のために辞める気でいて、本当に辞めたのですが……」。

 この一件以来、青空一門を去り、完全に芸能界から足を洗った。

 廃業後は、タクシーの運転手に転職。国際タクシーに14年間務め、後年、個人タクシーを持って働くようになった。

 タクシー業界では芸能界で鍛えた対応や事務処理が評価され、後年は労働組合中野支部副支部長にまで昇格している。74歳まで個人タクシーの運転手を勤めあげ、引退。

 2019年にお会いした際は元気であり、ハキハキと昔話を語ってくださった。亡くなったとは聞かないので今も健在だろう。

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました