林家染太郎・染次郎

林家染太郎・染次郎

上が染次郎・下が染太郎

真ん中で赤ん坊を抱いているのが染太郎

 人 物

 林家はやしや 染太郎そめたろう
 ・本 名  崎本 貞次郎

 ・生没年  1899年(逆算)〜1940年9月3日
 ・出身地  東京

 林家はやしや 染次郎そめじろう
 ・本 名 濱島 勢吉

 ・生没年 1901年頃〜敗戦直後
 ・出身地 東京 芝

 来 歴

 林家染太郎・染次郎は戦前に活躍したコンビである。染太郎は桂小文治の、染次郎は三遊亭円橘の門下であったが、漫才師になり、林家染団治の門下におさまった。達者な音曲と三味線の曲弾きを得意とした。染太郎の妻がはじめた店が浅草の「染太郎」で、屋号は彼の芸名から来ている。

 染太郎は建築業を営む家に生まれたが、母親が清元延佐以と名乗る清元の師匠だった関係で、早くから後継者として、三味線や芸を仕込まれた。

 若くして都々逸大会や演芸会で名を成し、清元が取り持つ縁で芳松という女と結婚し、蓮池にあった芸妓屋の旦那となった。

 暫く、旦那をしながら清元の師匠をしていたが、芸人に憧れ、噺家に転向。旧知の文の家かしくを頼って、桂小文治に入門、「やの治」と名乗る。

 染次郎(染二郎名義もある)は、芝に生まれ、幼い頃から踊りを仕込まれる。後年、芸人を志し、18、9歳頃に遠縁の三遊亭円橘(当時、柳亭芝楽)に入門、「柳亭栄楽」と名乗る。暫くして小文治門下に移籍。その前後で弟弟子として入ってきたのが染太郎であった。

 兄弟弟子として意気投合をした二人は鹿芝居や余興などコンビでやっていたが、桂小文治の勧めで漫才の真似事をはじめ、昭和初年に行われた名流演芸会での成功を機に、漫才に転向。

 しかし、染太郎の妻であった芳松は夫の漫才転向を快く思わず、離婚を遂げた(一方の染次郎の妻も向島の芸妓出身であったが、こちらは漫才転向に賛成したという)。

 その後、林家染団治と知り合い、入門。「染太郎・染次郎」と名乗った。染太郎の三味線と軽い話芸を身上とし、東京漫才創成期を彩った。

 また小文治の関係からか、芸術協会にも所属をし、寄席の色物としても活躍していた。この前後で、染太郎は崎本はると再婚し、浅草に居を構えた。

 1935年9月17日にはラジオに初出演。以下はその時の『読売新聞』ラジオ欄の記載である。

漫才「ハイキング話」
午後八時 林家染太郎、染二郎の初放送

林家染太郎さん、林家染二郎さんは共に桂小文治門下の落語家出身で、最近転向し音曲漫才で賣り出してゐる、松竹演藝部に属し目下浅草常磐座に出演中、初放送である。

 漫才としては派手な音曲漫才を得意とし、浅草の煩い客を唸らせる芸達者な所が売りであったという。『染太郎の世界』の中に載せられた坂野比呂志の『わが懐かしき』によると、

あの当時いろいろあって落語芸術協会と落語協会に分裂したあと、染太郎は落語芸術協会に入ったんだ。それで漫才では初めて染太郎・染次郎のコンビが松竹の専属になって、染太郎は清元と長唄の名取りだったから、芸の方はすばらしかったねぇ。
 黒紋付きに仙台平のはかまで三味線と椅子を持って出てきて腰かけちゃって、三味線ひきながら、
「カゴで行くのは お軽じゃないか……」
「カゴじゃないの、今は汽車、汽車」といいながら、汽笛一声新橋を……と汽車にかわる。このうまさはものすごくうけたねぇ。
 あの頃の漫才は三十分、四十分はたっぷりやったからねぇ。初めて聞いた時は、三味線をみんながシーンとして聞いているんで、「これ漫才かねぇ」て言ったら、それからしゃべり始めて、この音曲の掛け合いがなんとも言えないうまさだった。

 という回顧があり、その芸風が手にとって判るようである。

 長らく大看板として君臨したが、1937年7月8日染太郎が応召され、コンビ解散。戦地を転々とした後、河北省で負傷、浜松陸軍病院へ入院。

 復員後、漫才界に復帰したが、染次郎とのコンビを再開することなく終わった。

「お江戸どっこいショー」なる歌謡漫談グループを結成。あきれたぼういずの和製版としてそこそこの人気を博したというのだから、先見の明はあったのだろう。

 メンバーは、「砂川愛之助」、「泉新乃亮」(河内家新之助か)、「富士梅太郎」を誘って、「お江戸ボーイズ ドッコイショウ」なる歌謡漫才グループを結成した。『都新聞』(1940年4月2日号)の批評に、

 松竹漫才陣が、先月末の新橋演舞場に大會を開いた、番組のうちで異色あるのは、名前から變つてゐる林家染太郎達のお江戸ぼういずドツコイシヨウであらう、が、この日本式和楽器のあきれた・ぼういずも、誕生して以来一寸月日が経つてゐるのに、未だ模索の域を脱しないやうである
 四人のうち漫才出の二人、砂川愛之助、泉新乃亮の東北訛の「熱海の海岸」も珍らしくないし、新内出の富士梅太郎の「蘭蝶」も悪くないが、これをやる時に他の連中をあしらひ方にはもつと工夫もあらう、折角使つてゐる照明も惜しい○○ぎてゐない
 紋付、袴に三味線といふ姿が洋装ヴォードビル舞臺のやうに自由奔放に振舞へないといふ所に難點があるのだらうが、いい文藝部がついて、演出らしいものがあればもつと面白いものになりはしないか
 あきれた式ヴォードビル調がワンサと出来ては消えてゐる中に、日本式なのは、これ一つといふ意味でも、何とかして育てたいものである

 しかし、それから間もなくして日大病院で死去。以下は『都新聞』(1940年9月6日号)に掲載された訃報である。

松竹演藝部の漫才ショウ、お江戸ボーイズ、ドッコイショウの中心林家染太郎は、昨年戦傷して歸還以来、回復につとめてゐたところ、三日朝死去した、行年四十一

 一方の染次郎は、相方召集を受けて、「林家小浪」なる漫才師とコンビを結成し、男女コンビへ移行。後年、妻の「林家染吉」とコンビを組んで、浅草を中心に堅実な活躍を続けていたが、敗戦後まもなく廃業。

 戦後に亡くなったそうで、『染太郎の世界』の中にも、

 染太郎は昭和十二年七月八日応召、河北省にて負傷、浜松陸軍病院入院、十五年九月三日、日大病院で永眠した。染次郎も戦後死んだ。

 なる一文が掲載されている(この記事は1967年に発表されたものを再掲したものである)。

 残されたはる夫人はお好み焼き屋「染太郎」を開業。浅草通いの文化人や浅草の芸人たちに慕われた。今も浅草の老舗として営業を続けている。

 その染太郎を一躍有名にしたのは、高見順の『如何なる星の下に』であろう。浅草の人々や風俗、時代の流れを巧みにとらえた高見文学の傑作のひとつであるが、作中に、

 私は火鉢の火が恋しくなった。「――そうだ。お好み焼屋へ行こう」
 本願寺の裏手の、軒並芸人の家だらけの田島町の一区画のなかに、私の行きつけのお好み焼屋がある。六区とは反対の方向であるそこへ、私は出かけて行った。
 そこは「お好み横町」と言われていた。角にレヴィウ役者の家があるその路地の入口は、人ひとりがやっと通れる細さで、その路地のなかに、普通のしもたやがお好み焼屋をやっているのが、三軒向い合っていた。その一軒の、森家惚太郎ほれたろうという漫才屋の細君が、ご亭主が出征したあとで開いたお好み焼屋が、私の行きつけの家であった。惚太郎という芸名をそのまま屋号にして「風流お好み焼――惚太郎」と書いてある玄関のガラス戸を開くと、狭い三和土たたきにさまざまのあまり上等でない下駄が足の踏み立て場のないくらいにつまっていた。

青空文庫「如何なる星の下に」より

 なる一節が出てくる。これはまぎれもなく染太郎の事である。

 高見順のほかにも坂口安吾や野坂昭如などにも愛された。坂口が急死する直前、東京最後の夜を過ごしたのは、この染太郎の一室であったという。

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