市山壽太郎・小寿々

 市山壽太郎・小寿々

壽太郎の鑑札

 人 物

 市山いちやま 壽太郎じゅたろう
 ・本 名 河野 春雄
 ・生没年 1899年2月18日~1960年
 ・出身地 東京?

 市山いちやま 小寿々こすず
 ・本 名 河野 ナカ
 ・生没年 ??~没
 ・出身地 東京?

  来 歴

 平成の名コンビ、あした順子の両親である。順子氏が活躍したこともあって、記録はあるものの、不明瞭な点が多いので、あくまでも仮定という形で記す。

 「読売新聞 夕刊」(1943年8月20日号)によると、壽太郎は専修大学卒業後、大蔵省官房秘書課に就職し、官吏をしていたが、芸道にのめり込み、芸人に転向。

 ただ、あした順子氏本人から聞いた話だと早稲田出身との事である。

 日本舞踊市山流の舞踊家、講釈師や役者の経験もあるという大変な変り種で、一時期は市山流の家元代理も務めた程の人物――とある。

 小寿々の経歴はよく判っていない。しかし、順子氏などの話などから、元は同じ舞踊家の関係者という形で、知り合い、結婚。昔ながらの歳の差のある夫婦――夫が年上で若妻を娶ったというような事は耳にしたことがある。舞踊家だったのは間違いないようだ。

 因みに、あした順子と小壽々の間には血縁関係がない。義母・義理の娘の関係である。ただ、そういう関係を差別することなく、小壽々は優しい母親であったという。

 問題は、この壽太郎の経歴というべきか、生まれた家である。どうも、壽太郎の家は古くからの名家であると同時に、藤間紫、藤間大助、中村東蔵らと縁戚関係にある人物であったとの事。

 あした順子氏によると、藤間紫三兄弟の親、河野勝斎と壽太郎が兄弟(壽太郎が弟)で、紫と淳子は正真正銘の従姉妹にあたる――との事であった。

 因みに順子の姉、一枝は玉川スミとコンビを組んで、音曲漫才をやっていたが、関西公演の際に喜劇役者の澤田敏治の電撃結婚。コンビ解散した。

 夫の敏治は後年、上方柳次と改名し、「柳次・柳太」のコンビで、若井はんじ・けんじなどと鎬を削る上方漫才師として活躍。柳太が夭折した後、夫婦漫才に転向し、「上方一枝・柳次」として活躍した。一枝は少し前に亡くなったという。

 戦前からの漫才師で、戦時中は帝都漫才協会「第四区部長」に任命されるなど、漫才師としても立派な人物であったという。その一方で、帝都漫才組合分裂騒動の折には宮川貞夫日本チャップリンらと共に脱会した過去があり、「都新聞」(1935年3月11日号)に、

この実行委員は大和家貞夫、冨士五郎、同十郎、千歳家今助、朝日日出若、笑福亭茶福呂、寶家小坊、常盤楽山、三遊亭福助、市山壽太郎で、これに理事としてただ一人の脱退者日本チャップリンを加へて行く模様であり事務所は目下のところ定まつたものはないが、大體大和家貞夫が連絡の中心となつて計畫をすすめている

なる記載を「都新聞」などで見かける事が出来る。しかし、戦時中の帝都漫才協会には復帰しており、名簿には、

 と、理事として君臨している。そういう点では案外抜け目のない、合理的な人物のように見える。

 理 事

  (第一区部長) 砂川 捨勝  
(第二区部長) 大津賀 美将
  (第三区部長) 松島家 円太郎
(第四区部長) 市山 壽太郎
  (第五区部長) 大朝家 白鶴 
(第六区部長) 荒川 小芳
  (第七区部長) 荒川 清丸  
(第八区部長) 梅川 玉輔
  (第九区部長) 桂 喜代楽  
(第十区部長) 砂川 愛之助
(第十一区部長)中村 目玉

 戦後は市山流の師範として多くの弟子を育て、流儀を守る傍ら、仕事のあっせん業もやっていたという。「色々な仕事をやらされた」と羊かん氏の弁。行く道こそ違えども、縁者の河野勝斎と同じような先見の明と器用さがあった模様か。

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