アザブラブ・伸
ラブ(右)・伸
人物
人 物
アザブ ラブ
・本 名 渡辺 トミエ(城田)
・生没年 1912年3月20日~戦時中
・出身地 東京
アザブ 伸
・本 名 城田 乃富
・生没年 1901年1月18日~没
・出身地 東京麻布
経 歴
アザブラブ・伸は戦前に活躍した夫婦漫才師。「ラブシーン」を芸名にした通り、都会的な漫才を得意とした。ラブは女流漫才で初めてイブニングドレスを着た漫才師の先駆けという説がある。
生年は、「陸恤庶發第一五七號 船舶便乗船ノ件申請」(昭和十三年三月四日)より割り出した。
中支方面演藝慰問者派遣計画 陸軍恤兵部
班名・キング班
舞踊及歌手 三門順子 三門静子 大・四・九・二五
歌 手 樋口静雄 同 上 明・四四・一・二六
同 ミッキー松山 松崎栄子 明・四五・三・一八
伴 奏 杉井幸一 同 上 明・三九・八・二七
漫 才 アザブ伸 城田乃富 明・三四・一・一八
漫 才 アザブラブ 渡辺トミエ 明・四五・三・二〇
伸の前歴と芸界入り前後のことは『サンデー毎日』(1936年9月20日号)掲載の『笑ひの人國記』に詳しい。
インテリの由来は、伸さんが、城田君といつて、慶應の経済學部中途退學、夫人が大妻技藝出身で、二人とも十人並の教育は受けてゐる。伸の方が麻布狸穴の生れなんで「麻布」といふ名前にした。
慶應を中途でよすと、某銀行につとめてみたが、生来、芝居の方がすきで、堅氣な銭勘定をやめて、加藤精一、小笠原茂夫なんかの一座にゐた。そして、東京で生れて、赤ん坊の時、北海道に行き、いさゝか、東北なまりの混入した、ラブが、國民座をふり出しに、所々を流離してゐる間に、神戸でばったり出逢って“芝居も面白くないですねえ”と、二人で、浅草に出て來ると、公園は、漫才の洪水だ。大阪辯にまくしたてられて、江戸っ子の意氣さらにあがらない。
漫才も、やりようによつちや面白い。一つやつて見よう」
と、二人で、標準語の漫才を出して見ると、相當受ける、よし、と、気をよくして、とう/\本職 になつてしまった。
また、『アサヒグラフ』(1952年7月23日号)掲載の「舞台の司会者告知板」「腹でモノいう人々告知板」に詳しく出ている。
アザブ伸氏(49) 本名城田乃冨 東京生 山本嘉次郎とは慶応で同級生 彼の助監時代に 俳優にしてくれと頼みこんだ「その顔では」と断られる 剣劇 喜劇 新派 おまけにレビューでタップまで踏んだが 結局 アザブ・ラブ・シンのモダン漫才で世に進出 初めて女にドレスを着せ学生層には大受け「一番華やかな時代であつた」と回顧する 司会は漫才コンビの頃からだが 相手役のラブさんの死後は 東海林太郎を始め 歌い手大半の司会を引受けて田舎廻り 戦時中腹話術に転向 同時に各種演芸会 慰安会の司会をつとめた
なお、小島貞二は「活弁出身」と記しているが、師匠筋は分かっていないので、詳細はよくわからない。
ラブは北海道の出身。前述の『笑ひの人國記』の中に、「そして、東京で生れて、赤ん坊の時、北海道に行き、いさゝか、東北なまりの混入した、ラブが、國民座をふり出しに、所々を流離してゐる間に、神戸でばったり出逢って“芝居も面白くないですねえ”と、二人で、浅草に出て來ると、公園は、漫才の洪水だ。」とある。これが大体の経歴。
東京漫才の人気者
1935年頃、コンビを組んで漫才に転向。その頃はアザブ伸・月路ラブと名乗っていたが、後に統一して「アザブラブ・伸」。吉本興業に所属をし、林家染団治、桂金吾らと共に、東京漫才のホープとして活躍。主要な劇場に出演をしていた。
都会的な知性とモダンさを兼ね備えた漫才を得意とし、レコード吹込みも率先して行った二人は瞬く間に学生層を中心に高い人気を得、東京漫才の人気者の一組として数えられた。
しかし、その活躍はあまり長くはなかったそうで、ラブは巡業先の奉天で倒れ、病状悪化のためにコンビを解消。伸は妻と別れて帰国する事となった。
その後も夫と離れ離れで入院していたと見えて、『読売新聞』(1939年4月11日号)の「漫才の夫婦喧嘩を」という記事の中に、
そのお嫁さんがねェ、奉天で病気しましてね。向ふで入院してゐるんですよ。淋しいと何とも、……早く連れて歸つてねェ、小突いたり、小突かれたり、夫婦喧嘩がして見たい。ウワーッ、センセイ、御免なさい――。
とある。結局、ラブは再起叶わず若くして亡くなったようである。
残された伸は1939年頃より秩父照子、1941年頃よりアザブエミとコンビを組み直したが、往年の人気は取り戻せなかった。
戦後の動向とMOA
その後、伸は漫才から一線を退き、腹話術と司会漫談へと転向した。腹話術では川崎ブッペが作った「キー坊」なる人形を持って舞台を勤めていた。
戦後は司会のほか、栗友亭などにも出演をしていた。そのせいか、先述のアサヒグラフの「腹でモノをいう人々」に掲載されている。
また、伸は1952年頃に岡田茂吉の世界救世教に入信したそうで、その信心や活動の様子が茂吉全集などから伺える。
『婦人生活』(1953年10月特大号)掲載の松下紀久雄「話題の宗教道場探訪 世界メシヤ教の正体」によると、
信者の一年生
信者になりたての一年生。腹話術でご存知のアザブ伸(50)さんを、折から浮世絵開催中の箱根美術館でつかまえました。
「私のは胸がやつぱり悪かつたんで、七月には洗面器二はいの大喀血だつたのが浄霊でピタリと治り、今日こうして立つてるのは、まつたく生きたサンプルみたいなもんでさ。
さつそく此所で教主様のお書きになったお守りを胸にブラ下げて、東京へ帰っさつたのはいいが、嬉しくつて/\、何んか試しにやつて診たくてしようがねえ。
ところが、いい幸いに家内が娘の喜久美(4)の喉に氷袋をのせて、オロ/\しながら医者に駆けつけるツて所でしたナ。理屈は解んないけども(俺がやる)と云つたら、おかみさんが怒つて逃出しちやいましたネ。
不馴れな手つきで浄霊をやりながら、効くか効かないか、やつぱり心配で、一晩中寝ないでビク/\してましたら、そのまんま子供はスヤスヤ。たつた三十分で面白いように治つちやつたんでさ。
そうなると面白くて/\たまらないから、ビツコの犬でも見つけりや、エサを持つておつかけ廻す騒ぎです。
腰の抜けた近所のブリキヤの倅を治すと、同じ町内の風呂屋の親父が、神経痛でコチンコチンの体を持つて来ました。これは少々日数を喰いましたが一週間でグニヤン/\のやわらかい体にしてやりたした。
その証拠にはうちの六畳に置いてある、新品のタンスはその親父が、お礼だとかつぎ込んだものですから、来て貰えば何時でもお見せ致しますぜ……」
なお、この婦人生活の記事は一部曲解があったらしく、岡田茂吉の教義や解答をまとめた「御垂示録」の中で、この記事の事を批判している。
昭和30年代ごろまで、その存在を確認することが出来るが、その後の消息は殆ど掴めない。当時の関係者の話によると、楽屋大将(人気の有無に問わず、楽屋で威張る人)みたいな所があって、煙たがられていたという。
没年は不詳。しかし、前述の娘さんがまだご健在である可能性が高い。是非とも知っておきたい存在である。
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