笑福亭茶福呂・秋野華枝
人 物
笑福亭 茶福呂
・本 名 田中 保次郎
・生没年 1895年頃~1959年以降
・出身地 関西?
秋野 華枝
・本 名 田中 はつ
・生没年 1906年頃~1959年以降
・出身地 ??
来 歴
東京漫才の創成期に活躍した一組。夫婦漫才であったという。
両者の生年は、『陸恤庶發第四六三號 船舶便乗ニ關スル件申請』から割り出した。
茶福呂の前歴は殆ど謎に包まれている。が、笑福亭と名乗っている所から上方落語の出身であろう。誰の弟子かまでは判らない。
大正~昭和前半頃の上方落語界隈では茶番、掛合などが人気を博すようになり、掛合・茶番を専門とする落語家が生まれるようになった。
但し、その頃の軽口の名人に宇治の家茶好という人がいた事を考えると、この人の弟子かもしれない。
茶福呂が東京へ来たのは早く、『都新聞』(1927年9月11日号)の広告に
浅草劇場 初上京萬歳荒川竹春、笑福亭茶福呂等加入
『都新聞』(1927年9月11日号)
とあるのが確認できる。相方の竹春は荒川芳春かその辺りの弟子だろう。これ以降、「関西萬歳」の名義で、東京の舞台に出るようになる。
▲帝京座 大和家三姉妹一座へ八日より関西萬歳笑福亭茶福呂、荒川竹春加入
「都新聞」(1928年2月8日号)
その後、巡業に出たのか、1929年頃には広告などから名前が消える。
1930年頃、笑福亭花子という人物とコンビを組み直している。『都新聞』(1930年10月22日)の広告に、
▲帝京座 新加入は
万歳若松家正三郎、玉子家源一、柳家美代子、柳家亀八、笑福亭花子、同茶福呂
とある。この花子が後年の妻、華枝かどうかは不明。
華枝の前歴はよく判らない。華枝の名前が出てくるのは、1931年からで、『都新聞』(6月14日号)の広告に、
▲新富演藝場 十六日より五日間
福丸、愛子、華枝、茶福呂、一丸、金茶丸、吉丸、源一、六郎、和加子、月子、友衛、小柳連等の東栄會一座出演者
と記載されている。この頃にはもう一枚看板だったと見えて、1931年11月、小松川に開設された寄席「占春館」の開館特別興行に、桂文治や鈴々舎馬風などと共に出演している。詳しくは上掲の写真を参考。
以降、華枝とのコンビで活躍。波多野栄一『寄席と色物』によると、
笑福亭茶福呂、華枝 音曲漫才時代に始終シャベクリで通したのだからエライ
とある。関西由来の掛合を得意とした模様か。また、ベーゴマやウグイスの真似など、他愛無い物真似も得意としたという。
戦前より籠寅に所属したそうで、『近代歌舞伎年表』などに、
十月一日~ 浪花座
籠寅のまんざい秋季大会ススム・アケミ 尚子・代志子 里子・文弥 色香・圓太郎 華枝・茶福呂
駒坊・成駒 種二・ちどり 捨丸・春代 端唄とん子・美代司 小夜子・直之助
ナンジャラホワーズ アクロバツチツクバー
とある。
1943年には、大日本漫才協会に所属。青柳ミチロー、文の家都枝と共に、第九部の幹事に任命された。ただ、この頃の動向には謎が多く、よく判らない点が多い。
戦後も細々と活躍をしていたそうで、『アサヒ芸能新聞』(1954年5月1週号)の『関東漫才切捨御免』の中に、
秋野華枝・笑福亭茶袋
二人とも年配ですし、古い。といってこれからもう一回華を咲かせてという望みもない筈。茶袋の物真似――の鶯の谷渡り、ブンブンゴマが他愛のないもので御機嫌を伺っている。
とあるのが確認できる。1959年まで舞台に立っていたというのだから古い。『週刊サンケイ』(1959年6月28日号)の広告の中に
漫才キャバレー・ドマン 出演 竜男光代・ラッパタイコ 茶福呂花江
とあるのが確認できる。
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