柳家語楽・大和家こたつ

柳家語楽・大和家こたつ

語楽・こたつ(左)
(※ご遺族提供)

極めつけのひざ人形

 人 物

  柳家やなぎや 語楽ごらく
 ・本 名 梅津 松太郎

 ・生没年 1901年7月1日~1997年1月22日
 ・出身地 東京 浅草

  大和家やまとや こたつ
 
・本 名 梅津 花子
 ・生没年 1911年8月27日~2001年2月25日
 ・出身地
 大阪

 来 歴

「膝人形」なる珍芸一本で、その生涯を送ったという関西の吉田茂(直木賞作品『てんのじ村』のモデル)に匹敵する不思議な存在である。

 先日、ご遺族(二人のお孫さん)をコンタクトがとれ、詳しいことが分かった。上の生没年はご遺族からご教示頂いたものである。

 晩年、花王名人劇場に出演した際に紹介されたプロフィールが、僅かに彼を偲べる資料だろうか。以下は『花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ』からの引用。

 柳家語楽 ●ひざ人形
 語楽、こたつの夫婦コンビで東京漫才の草分け。明治三十四年生まれで七十八才。初高座は大正七年はなしかとなる。そのときからの寄席演芸がこのひざ人形であったから、以来極めつきとしてほかにだれの真似をしなかった独占芸。柳家三語楼門下で、兄弟弟子は権太楼、金語楼である。
 何とか後継者をつくろうと思っているが、あとをつごうという者がいない。一代芸の見本のような奇芸である。
 立てひざを顔に見立て墨で目鼻をつけ、のんきな父さんができ上る。衣裳をつけさせて、袖から手を出し、安来節にあわせて手踊り、ひざの顔が首をのばしたりちぢめたり、まことに珍なる、どじょうすくいを演じる。

 ご遺族によると、語楽は元々浅草のペンキ職人の長男であったが、現場で怪我をしたのを機に寄席通いをするようになり、落語家の道を志す。

 1918年、柳家三語楼の門下となり、兄弟子が名乗っていた「語らく」を襲名。「柳家語楽」となる。

 上記の通り、元は落語家であったようだが、若い頃から落語よりも珍芸に力を注ぎ、膝に顔を書き、下座に合わせて踊る「膝人形」なる芸を演ずるようになった。

 この芸は戦前から知られていたようで、『都新聞』(1935年9月12日号)に

何處も彼何処も漫才の波で、實演劇場、演藝場で漫才の匂ひをしないのは歌舞伎一方の宮戸座位のものだが、この漫才氾濫の中に變つたものを見た、先達て以来江戸館に出てゐたのが、今月から花屋敷演藝場にも掛け持ちで現はれたもので珍漫藝柳家語楽といふ、電氣應用で四谷怪談などを演つた後で、右の膝小僧に顔を描き頭巾を被せ着物着せての膝藝は、まことに人を喰つたものだが、二人でやる漫才全盛の時に一人藝のこれも何とはなしに皮肉で面白い……

 と記されている他、『キング』(メモ紛失の爲号数を忘れている)にも

 珍藝 膝人形 柳家語楽

トーザーイ/\、こゝもとご覧に供しまする手前持前の珍藝、膝人形ノンキナトーサンは鰌すくひ、三味線太鼓の應援を願ひまして、お賑やかに先身仕度整へまーす。
テテンテン/\/\チリチン
身仕度整ひますれば、ロイド眼鏡に振り袖姿、粋なノンキナトーサン鰌すくひの巻、ハイおはやし―ッ。
〽これは皆さんようこそお越しどうぞご贔屓願います(安来節)ご挨拶すみますればいよ/\本題にとりかゝらせていたゞきます。
〽妾しや雲州濱佐太生れ朝間夙から鰌すくひ
〽晴れて添ふ日を松江の湖水たまの大橋楽しみに
〽嫁が島田と言はれる迄はどんな苦労をして松江
ハイ、ご退屈様。

 この珍芸は寫眞の通り、膝へ人形の顔をかき、手拭で人形の顔から顎にかけて頬かぶりをさせます。それからあかん坊の着物を前方から着せて、太股の上で着物の附紐を結び、両手を袖に通して歌に合せて踊るのです

 とある。この後、妻の玉子家こたつとコンビと組み、夫婦漫才となった。

 妻の大和家こたつは夫以上によく判らない人であるが、民謡研究家の野口啓吉氏によると「大和家八千代一座にいた人物」だという。安来節の出身だろうか。

「大和こたつ」と称されたように恰幅のある大女だったそうで、小柄な語楽と一対になっていたそうである。一時期「玉子家こたつ」と名乗っていたこともあるが、そのあたりの関係は不明。

 1936年5月8日、倅・司郎誕生。この子は、七代目林家正蔵門下で落語家修行をした後、紙切の小倉一兆門下に入り、花房蝶二と名乗った。洋服姿で紙切りを演じる「モダン紙切り」で人気を集めたが、50代で夭折したと聞く。

 1943年の帝都漫才協会には参加しているが、なぜか全芸部(諸芸・雑芸)の部に加入しており、相方のこたつは参加していない。どうしたものか、としか言いようがない。

 戦後も浅草を離れず、木馬館や松竹演芸場を中心に活躍。

松浦善三郎『関東漫才斬捨御免』(『アサヒ芸能新聞』)にこの頃の芸風が出ているので引用する。

柳家こたつ・互楽
これも舞台のコントラストが実に面白い、互楽が鶴のように上にのびているのに反し、こたつは名の示す如く四角でふとってスワリの良いタイプ。互楽がヒザに墨で顔を書いて人形の着物で足を開び、こたつの安来節に合せて片足だけ動かして踊る。厳密に分類すれば 足踊りとでもいうべきか。胸から腹にかけて大きく顔を書いて腹の皮をよじらせてる座敷芸も他にあるが、これはそれよりやや上品 コタツが三味線を持てば興趣さらに妙

 1955年の漫才研究会には関与せず、独立独歩の歩みを見せていたが、1961年に設立された反漫才研究会の宮田洋容率いる「東京漫才協会」にはなぜか参加している。『読売新聞 夕刊』(1961年5月25日号)に、

▽東京漫才協会には東ダブル・谷ジョッキー、宮島五十歩・百歩、柳家語楽・大和屋こたつ、内藤ロック・外藤パック、泉ひろし・条あきら、松廼家錦治・小福の漫才六組みと漫談、司会の伏見ちかしが入会した。

 という記載があるが、なぜ入会したのかはわからない。

 1970年代まで淡々と舞台を務めていたが、晩年、澤田隆治や神津友好に見出され、一芸名人として、『花王名人劇場』などに出演。

 1979年12月2日に放映された「花王名人劇場 一芸名人集」の一部はビデオ・DVDになっており、その芸の片鱗を今でも見る事ができる。

 1981年新年にNHKで行われた演芸大会に出演している所まで確認できるが、その後は一線を退いた模様。

 その後は息子・娘と共に静かな晩年を過ごしていたという。主な面倒は娘が見ていた――とご遺族の弁。

 1994年、長男の蝶二が死去。逆さ縁になってしまった。

 その後も二人は生き続け、語楽は97歳という長命を保って死去。その数年後、こたつも90歳という長命で死去。夫婦そろって長命筋であった。

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