新山えつや・ひでや
えつや・ひでや
真打に昇進した時の二人
人 物
新山 えつや
・本 名 栢盛 秋好
・生没年 1945年8月23日〜2020年8月
・出身地 北海道 芦別市
新山 ひでや
・本 名 柘野 信司
・生没年 1945年12月25日〜2019年8月23日
・出身地 栃木県 足利市
来 歴
数日前、野暮用有りて新山ノリロー氏に電話を掛けたところ、開口一番「あのさ、ひでやが亡くなったね」と言われた。SNSを見ると訃報記事が出ている。享年73歳。病後とはいえ、まだまだ活躍してくれる――と思っていた矢先のことなので、驚くより他はなかった。
その後、ノリロー氏と「新山えつやひでや」の話をして、自分の知らなかった事をいくつか教えて頂いた。ノリロー氏個人は、えつやと別れたあとのひでや氏とあまり交友がなかったそうであるが、それでも同じ「新山」だけあってか、よく知っていた。
その事を、追悼を含めて記事にしようか――と思ったが、ここで大きな問題に直面する事となった。
いわく、戦後の漫才師たちをほとんど書いていないのに、一足飛びどころか、三足くらい飛ばしてえつやひでやまで行っていいのか、ということ、僕自身がえつやひでやに関してそこまで興味がなく、詳しいことを知らないということ、さらに関係者から頂いた写真や写した資料などを実家に持って帰ってしまって手元にない――など、原因は挙げればきりがない。
生前のひでや氏には数回お会いしているものの、詳しい話は聞いていない。「いつでも聞けるだろう」という慢心が引き起こした痛恨のミスである。惜しい事をしたものだ、と失った哀しみと合間って、非常に空虚な気分を味わっている。
そんなことできちんとした物を書くことはできるのか――と、言い訳はいくらでも出来るし、書かないのも自由である。
しかし、数回の面識とはいえ、袖振り合うも多生の縁。ましてや、僕はひでや氏から手紙の返事を頂いた恩義がある。それに「ひでややすこ」のことはよく知っていても、「えつやひでや」の事はよく知らないわからない、と今回の訃報を受けてそう感じた人もいる事であろう。
追悼の意を込めて、今回も特例的に順番を前後させて、「新山えつや・ひでや」について、書くことにする。最前申し上げたとおり、目下資料が手元になく、コピーといくつかの文献しかない心許なさであることは承知してください。また追記します。
また、新山ひでや・やすこのコンビ結成以後は『「東京漫才」列伝』や落語芸術協会のホームページに出ているので省略します。こちらもご了承ください。
新山ひでやは、栃木県足利の生まれ。父親は農家相手の種屋を営んでおり、商売上手であったものの、結核に倒れ、37歳の若さで死去。この時、ひでやはまだ小学5年生の子供であった。
父親と死別して以来、家運は傾き、母親は内職をして、生活を支えた。この頃の事は詳しく話さなかったそうだが、春風こうた氏から伺った話では「言い方が悪いけど悲惨な生活だったらしい」。
中学卒業後、足利工業高校に進学したものの、中退。地元のゴム会社に就職。母親も入社し、親子で一生懸命に働いた。
この職場で出会ったのが、保子――後年の「新山やすこ」さんである。最初は母親の友達として知り合い、後に歳の近い職場の同僚として親しい関係になった。
働き口も友人も得た平穏な日々も束の間、ひでやの母親は子宮癌を患い、入院。ひでやは、この病床にいる母の介護に明け暮れ、保子もひでやの母の看病に協力をした。
仕事と介護の傍らで、当時流行っていたのど自慢や演芸放送などに出演するようになる。
1965年、毎日放送『笑いの学校』の東京代表として選出。
1966年、NET系列番組『素人演芸館』で4週連続合格。「ドキ胸家ブラ助」という芸名を頂戴した。
この頃、母親が子宮癌の為に40歳の若さで死去。天涯孤独になった事、演芸番組の合格で自信を得た経験から、芸人を志し、上京。
上京前後でやすこと入籍し、間もなく長女を授かった。
左の眼鏡がハチロー
上京後、松竹演芸場に入り、当時松竹演芸場の裏方やマネージメントをしていた元漫才師、東ハチローの世話になる。なお、この東ハチローは東喜代駒の孫弟子で(東ヤジロー・キタハチの弟子)、コントと喜劇で一世を風靡したコメディアンの東八郎とは一切関係ない。
松竹演芸場で雑務をこなす傍ら、司会や話術を覚え、徐々に仕事をこなすようになる。師匠筋の東ハチローから亭号をもらい、「東修司」と名乗る。漫才協団が一度作った漫才系図では、ひでやは「東ハチローの弟子」として記されている。
1967年、西光司とコンビを組んで、本格的にデビュー。西光司は、本名、「天野光男」という。「東西コンビ」の名前で、司会漫才を演じたが、1年で解散している。
1969年、当時爆発的な人気を集めていたコメディアンの東京ぼん太の専属司会者となり、しばらく東京ぼん太の世話となる。
同年、人気歌手のこまどり姉妹の専属司会者として迎え入れられ、全国を巡業する。以来、1971年にえつやとコンビを組むまで、漫才界から少し距離をおいた模様。
新山えつやは、北海道芦別市出身。本名は栢盛秋好。これで「かやもり」と読むらしい。難読漢字である。これは、関係者よりご指摘をいただいた。ありがとうございます。
幼い頃から民謡や歌に囲まれて育った――と、新山ノリロー氏から伺ったが真相は不明。ただ、後年の美声や歌の素養を考えるとウソでもなさそうである。
ノリロー氏から聞いた話では、「学校出て働いていたそうだけど、芸人になりたくてやめたそうだよ」とのことであるが、確証は得られていない。地元の芦別高校を卒業。
1965年、芸人を志して上京。落語家の古今亭今日輔(現・柳家金三)と知り合い、彼から紹介される形で新山悦朗に入門。兄弟子に新山ノリロー・トリローがいる。
その後、悦朗の鞄持ちとして寄席や劇場を出入りする事となる。
1967年、兄弟子の新山セイノー・サイノーを結成し、新山サイノー――というのが、通説であるが、新山ノリロー氏によると、「それは違う」との事である。
今回の目録に載せたローカル岡の所では、わからない点があったので、非常にぼかした書き方をしたが、これでやっと辻褄が合うこととなった。
ノリロー氏によると、
「セイノー……これが確かローカルなんだけど、こいつはね、えつやがくる前から悦朗親父のところに出入りしていた。弟子入りというと変な話だけどね。だから、えつやからみれば兄弟子だな。でも、このセイノーはあまり上手くないし、えつやが入った時にも誰かとコンビを組んでいたんだ。確か。だから、えつやの最初の相方はローカル岡じゃないよ。前にもいたんだね。名前はハッピー・エンド……そう、新山ハッピー・エンドってコンビでやっていた。エンドがえつや。ハッピーはどんな人かって? ハッピーは、確か森野って名前でね、芸能界やめた後は神戸でメガネ屋か何かになって、支店長だったか、支局長だったか、なかなか出世した、ってのは、覚えてる」。
「セイノー・サイノー」で、木馬館の舞台を踏み、活動を続けていたが、パッとすることなく1969年に解散。
その後、ひでやと知り合うまで、コンビをとっかえひっかえしていたーーと聞く。
1971年、ひでやと出会い、コンビ結成。当初は「新山えつや・東ひでや」名義であった。
大きくて二枚目のひでやと、小柄ででっぷりとしたえつやから放たれるスピーディーな掛け合いとえつやの民謡を中心とした漫才を展開し、注目を集めるようになる。神津友好や遠藤佳三といった演芸作家にも恵まれ、メキメキと頭角を現すようになった。
1972年11月15日から19日まで、日系人関係者に招待され、浪曲の木村忠衛、落語の桂円枝と共に、サンパウロなどを巡った。この来訪はちょっとしたニュースとなり、サンパウロ新聞社が後援に付いたほどであった。
1974年、第22回NHK漫才コンクールで優勝。以下は、その時に出場者と入賞者。
第22回NHK漫才コンクール 1974.2.13 イイノホール
最優秀「ふるさと」新山えつや・東ひでや
優勝 「SLは行く」(遠藤佳三作)春風こう太・ふく太1番目のグループ
「節約時代」(緑川崇久作)大空はるか・かなた
「僕はキャプテン」青空ピック・アップ
えつやひでや
2番目のグループ
「僕はモナリザ」(古城一兵作)東京丸・京平
こう太ふく太
「フィーリング時代」(京田勝馬作)Wモアモア
3番目のグループ
「珍ずし」(古川新山作)青空ヒッチ・ハイク
「南北体操」星セント・ルイス
「ああ 我幼なかりし頃」(小松良則作)大瀬ゆめじ・うたじ
4番目のグループ
「昔と今」(あべゆうじ作)木田P太・Q太
「くたばれベース・ボール」昭和のいる・こいる
「プレイ・ボール」高峰愛天・敬天
遠藤佳三氏から聞いた話では、「えつや・ひでやは実力もあって、優勝候補だったんですがね、この時の作品は、泥臭い、民謡と股旅物のアクションの多い作品で、全うなしゃべくりも沢山出来るのに、こんなので大丈夫か、とあきれた事があります。そしたら、優勝しちゃったんですねえ。あの熱演が審査委員に買われたのかもしれません」。
民謡と巧みな話術を武器とした若手のホープとして、人気漫才師になる。以来、テレビやラジオに進出。お茶の間の人気者になる。この優勝を機に「新山えつや・ひでや」と亭号を一緒にした。
1976年1月、泉ピン子、桂文平、イエス玉川、玉川福太郎等と共に日本放送演芸大賞ホープ賞を受賞。コンビの地位を不動のものとした。
1985年11月1日、浅草公会堂で行われた漫才大会で真打昇進。以下はその時の大会の記録。
パンフレット祝電 コロムビア・トップ 労働大臣・山口敏夫 森繁久彌 三波春夫 花井伸夫 木村若衛 遠藤佳三 早川一夫(栃木県会議員)
オープニング「漫才協団”ご挨拶”」
会 長 コロムビア・トップ
副会長 リーガル天才
理事長 青空一夜 他幹部一同第一部「笑撃!漫才大行進」
司 会 (昼)南けんじ (夜)青空田の志
出演者 新山絵理・真理 青空きんし・ぎんし 大空遊平・大海かほり 大空ネット・ワーク 大空あきら・たかし 東京丸・京平 青空一歩・三歩 大空みつる・ひろし 岸野猛・原田健二(ナンセンス)第二部 「十代目真打披露口上」
出演者 新山えつや・ひでや
会 長 コロムビア・トップ
副会長 リーガル天才
師匠筋 青空一夜司会 Wモアモア
(ゲスト)
(昼の部)桂米丸 齊藤京子
(夜の部)団しん也 シルビア 山本謙司 三波春夫(お祝いの言葉)
(演奏)高橋明美とスイングシラブル
(踊り)荻原とみ社中第三部「’85年忘れ漫才競演」
(NHK・TV)昭和六十年十二月三十一日(火)午後一時〜司 会 青空千夜・一夜
出演者 桂光一・光二 Wエース 内海桂子・好江 獅子てんや・瀬戸わんや リーガル天才・秀才 Wけんじ あした順子・ひろし 松鶴家千代若・千代菊オープニング・フィナーレ他漫才協団員オール出演(順不同)
第四部 「爆笑!漫才大全集」
司会 東京二・西〆子
出演者 大瀬ゆめじ・うたじ マキノ洋一・初江 Wけんじ さがみ三太・良太 昭和のいる・こいる 春日富士松・たけお あした順子・ひろし リーガル天才・秀才フィナーレ ご存知”住吉踊り”(漫才協団員)
その後、屋台骨の少ない東京漫才の一組として、奮闘活躍を続けていたが、1993年5月、成田市で行われた結婚式の余興に出演し、十八番の民謡漫才を演じたが、控室に戻る途中、厨房でえつやが昏倒し、コンビ活動休止。
えつやは脳血栓に倒れ、左半身が不自由になった。しばらくの間、漫才協団に籍を置き、リハビリを続けていたが、前のような体調を取り戻せず、北海道にいる姉の元へ戻る事となった。
昨年の冬に、ひでや氏にお会いした際に伺った話では、「26年ぶりに会いました。札幌の施設にいます。見た目もおばあちゃんみたいになっていましたが、元気そうでした」と、嬉しそうに語っていたのを思い出す。
相方を失ったひでやは、司会漫談や漫談などで場をつないでいたが、長らく茫然自失とした日々を送っていた。
ギャンブルに手を出し、家庭的にも荒れたが、やすこの決心と説得により、夫婦漫才を結成。「新山ひでや・やすこ」として日暮里サニーホールで再スタートを切った。
当初は息が合わず、舞台でのトラブルにも巻き込まれたが、やすこの努力とひでやのサポートにより、徐々に夫婦漫才としての味と風格を持つようになり、人気を取り戻すようになった。
桂米丸の紹介で、落語芸術協会に入会。寄席の色物として活躍、落語会のお彩りとしても声がかかるようになり、寄席ファン、落語ファンからも人気を集めるようになった。
手のひらをクロスさせて「最高!最幸!」と叫ぶネタを覚えている人は多いだろう。ほのぼのとした夫婦漫才が特長的で、芸術協会でも指折りの漫才師であった。また、安定した実力からテレビやラジオなどで活躍。
晩年は、ナイツの塙や若手落語家たちによって、特注の鬘や言動をはじめとするおもしろエピソードや、飄々とした人柄がテレビで放映され、ちょっとした有名人としてヤング層からもウケるようになった。
2018年3月25日、よみうりテレビ『逃がした魚』に出演。ナイツ塙と共に、新山えつやを訪ねる企画が放映された。北海道へ渡り、色々な関係者との交渉の末に、再会。
やって来たのは浅草の東洋館。72歳の新山ひでや師匠には逃がした魚がいるらしい。ナイツ塙が話を聞いた。
ひでや師匠の逃がした魚は、26年前まで相方だった新山えつやさん。新山えつや・ひでやは1971年にデビューし、3年後にNHK新人漫才コンクールで優勝。民謡漫才というスタイルで人気になった。家族のような存在だったが、1992年5月、えつやが脳梗塞で倒れ、活動休止。ひでやは復帰を待とうと妻とコンビを結成した。
しかし、えつやからは別れの手紙が届き、音信不通になったという。手掛かりは親戚の連絡先だけ。 塙とひでや師匠は、えつやさんの親戚がいるという北海道へ。札幌から車で1時間の岩見沢市で、親戚の山田さんに会った。山田さんのおじさんがえつやさんの義兄で、おじさんが行けば会えるとのこと。
3人は今来た道を戻り、札幌のおじさんの家へ。おじの宍戸さんの家には、新山えつや・ひでやの写真がたくさん飾ってあった。えつやは別れた3年後に再度脳梗塞で倒れ、現在は介護センターで暮らしているらしい。ほとんど人に会いたがらないというが、果たして…。
ひでや師匠はえつやさんに会いたいと訴えたが、宍戸さんは「それはできない」と答えた。しかし再度頼み込み、介護支援施設の担当者と交渉することに。担当者も本人のOKがなければ会わせられないということで、まずは宍戸さんが1人でえつやさんのもとへ。ついに、会ってもいいという返答をもらった。
「漫才新時代」の番組宣伝テロップ。 博多大吉が「漫才師って不思議な商売ですね」とコメント。大吉から俺がいなくなって嫁さんとやるか、と尋ねられた華丸は「できんくさ、間が悪いもん」などと話し笑いを誘った。
新山ひでやさんが新山えつやさんと再会。新山えつやさんの部屋には初真打の記念時計が置いてあった。新山ひでやさんが新山えつやさんへ宛てた手紙を読み、2人は涙を流し思い出話に花を咲かせた。
新山えつやさんは「とにかく元気にやってくれればイイんだよ。いくつになっても元気でな。奥さんによろしゅう言ってえよ」と言葉をかけ、新山ひでやさんは「えつやさんの分まで漫才頑張るからね」と返した。
晩年まで率先して舞台に出続けていたが、2019年8月23日午前9時54分、大腸がんの為、永眠。以下は新山ひでやのfacebookに掲載された訃報。
この度 新山ひでや(本名 柘野信司)が 令和元年8月23日午前9時54分大腸がんのため永眠致しました。
ひでやはいつも、 『僕は周りの方々に本当に恵まれて最高!最幸!の人生だ』と言っておりました。 生前、温かいご声援を頂きましたファンの皆様、関係者の皆様には大変お世話になりました。深く感謝申し上げます。
これからの活躍を望まれる矢先の死であった。袖振り合うもの関係とはいえ、話をした相手が亡くなるのは悲しい事である。今はただご冥福をお祈り申し上げる他はない。
えつや氏はその後もご健在――と記したが、えつやの義兄の関係者より「えつやは相方・ひでや没後、1年後の8月、満75歳で亡くなりました。」という連絡をいただいた。葬儀は施設があげたため、命日が判然としないが、どうも誕生日を迎えた直後に亡くなったようである。
コメント
新山えつやに関する情報
テレビで奇跡的に再会をしましたがその後翌年か翌々年の夏に永眠しました。
テレビの中での親戚の山田です