宮田洋容・布地由起江
宮田羊容・布地由起江
宮田洋容・不二幸江時代
唄野洋一時分(右から二人目)
宮田洋容・フィリップ時代
ふじゆきえ・はなこ(左)
人 物
人 物
宮田 洋容
・本 名 岩下 信夫
・生没年 1915年2月16日~1983年7月1日
・出身地 熊本県 三加和町
布地 由起江
・本 名 長谷川 幸子
・生没年 1932年5月6日~ご健在?
・出身地 北海道 函館市
来 歴
戦前戦後に活躍した東京漫才のリーダー分の一組。「ミュージカル漫才」なる大仕掛けの漫才を得意とした他、「東京漫才協会」を率いた。
宮田洋容の前歴
宮田洋々、羊容名義もあり。姓名判断が好きで改名を繰り返した。
出身は熊本。『九州人国記』によると、実家は玉名市で水道工事請負業者をやっていたという。洋容はその長男に生まれ、跡を継ぐように望まれた。
祖父は元々神官の家柄だったが独立して「宮田屋」という店を営んでいた。亭号の「宮田」はここから取った――とLP『東京漫才のすべて』の中で語っている。宮田陽司は甥か(親戚なのは事実である。)
緑尋常高等小学校卒業後、熊本商工学校へ進学するが、役者を夢見るようになり、1929年に退学。
九州を巡業していた「剣劇義勇団」なる一座に入団し、剣劇役者としてデビュー。二枚目を自称し、旅回りに明け暮れるようになる。
5、6年近くドサ回りの一座で役者修行をしていたが、役にも仕事にも恵まれず、陰鬱とした日々の中で大阪へ上る。そこで漫才師のミス・ワカナと知り合い、漫才を勧められた。その助言に従って、ミス・ワカナの一座に入団した。
1935年、漫才に転向。ドサ回りの漫才を経て、上方漫才の大御所として活躍していた唄の家ライオンの門下に参じ、「唄の家ライト」と名乗る。
この時の同門が、唄の家なり駒である。関西では、千歳家今若・今次、永田小キングなどと仲が良かったという。
以来、大阪の寄席や劇場に出演するようになり、諸芸全般を身につけた。その努力が認められ、1937年には吉本興業と専属契約を結び、大劇場へ進出するようになった。
吉本興業入社を前後に、ギターやアコーディオンといった洋楽を習うようになり、仕事が終わった後の時間を音楽の勉強に当てるなど、努力を重ねた。
一方で古い漫才の形である「数え歌」や「俗謡」などの類も会得、中でも数え歌は得意だったそうで、
「古い漫才ならいくらでもできますよ。中でも数え唄はボクのオハコでね」
と、『ラジオ東京ニュース』(1954年11月4日号)の中で語っている。これが、後年の音楽ネタで役立つことになる。
1937年頃、召集を受けて入隊、軍隊生活を送る事となる。
1940年、除隊に伴い復帰、新たな仕事を求め上京。実家の屋号を元に「宮田洋一」と改名した。
上京後、東京吉本に入社し、「宮田漫楽隊」なる一座を結成。この頃から音楽入りの漫才やお笑いに注目し、着手し始めた模様か。
1944年、太平洋戦争激化に伴う再召集を受け、沖縄に配備される。同地で沖縄戦の激戦に巻き込まれ、死線を彷徨い続ける。
激戦を潜り抜けたのち、宮古島で終戦を迎え、しばらくして本土に復員。
復員後、「唄野洋一」と改名し、楽団「ユーモア」を結成。お笑いに復帰すると共に、バンドマスターを兼任した。楽士や芸人を引き連れて、地方巡業や進駐軍キャンプなどを拠点に活躍。
1949年夏、内海突破と別れたばかりの並木一路とコンビを組み、漫才に復帰。「宮田洋々」と改名する。
人気と実力を兼ね備えたコンビだったそうで、『アサヒ芸能新聞』(1953年2月3週号)掲載の『帝劇関東漫才大会』でも、
つづいて一路・洋容、これも何時もと変らぬネタ。濃青ビロードのワリドンにこのコンビの白っぽい背広は極めてマッチして、ヤジロー・キタハチの場合と違ってクッキリ浮び上って絶。洋容のボケに女性の笑い声しきり(十五分)。
と、高く評価されている。元々の知名度に加えて、実力もあった事から、ラジオなどにもたびたび出演している。
4年ばかりコンビも続けたが、方向性の違いから1953年3月24日限りでコンビ解消。以下は、『朝日新聞夕刊』(同年3月12日号)に掲載された解散報道『別れもたのし 一路・洋容コンビ解消』。
漫才の並木一路、宮田洋容は放送では先月二十四日の文化放送、舞台では今月二十四日の熱海での興行を最後に、約四年間のコンビに終止符を打つことになった。コンビ解消の原因は、洋容が子供でもわかる安易な演出で演技も軽くリアルに行こうとするのに対し、一路は飛躍的な演出を希望とする演出上の見解の相違ともう一つの難点は二枚目と三枚目がはっきりせず、お客が戸惑いしている点をお互いに感じて行詰りがきたもの。
コンビ解消後の行き方について洋容は、音楽をとり入れた漫才を希望して、大阪で漫才をやっている女性とのコンビを交渉中で、二十三日には決るらしく一路とのコンビで出演していた文化放送の「漫才電車」も四月からこの新コンビで再発足し、ピアノ伴奏にとり入れた新形式で放送することになっている。
一方、一路の方はきっぱり漫才をすてる決心で、映画俳優として身を立てたいという意向を持ち、夢としては、テレビにそなえて女性を交えた三人の立体漫才といったものを考えているが、九年間のコンビであった突破とわかれた時と違って、お互い芸の上のケンカはしても、個人として将来とも交際するという円満なわかれかたなので、当分はあせらずに勉強するといっている。
1953年4月から歌手出身の日森麗子とコンビを結成し、ピアノ入りの「ミュージカル漫才」を行うようになった。日森は元々、声楽に通じた歌手で、川崎豊の門下生という全く畑の違う人であった。
そんな彼女の美声に惚れて、洋容はコンビ結成を申し込んだ模様。『朝日新聞夕刊』(1953年3月27日号)の記事に、
新コンビ洋容と麗子 並木一路と別れた漫才の宮田洋容は、新たに日森麗子とのコンビが成り、来月一日栃木のコロムビア大会から再出発する。
麗子は満州で往年のテナー歌手川崎豊氏について歌を勉強、奉天の大陸劇場、南座などで活躍し、引揚げ後は駐留軍慰問のステージに立っていた人で、セミ・クラシックな歌が得意とあり、洋容・麗子の新コンビは歌と音楽を採り入れた漫才で進むという。
とあるのが確認できる。
端正なしゃべくり漫才から音楽入の漫才への転向は多くの衝撃を与え、賛否両論が飛交う事となった。
その代表的意見が『アサヒ芸能新聞』(1953年11月4週号)の松浦善三郎『関東漫才切捨御免』に掲載されているので引用をする。
宮田洋々・日森麗子
問題の漫才であって、今後の洋容の行き方によっては後日再び言及しなくてはならない漫才である。関東を代表する名コンビ一路洋容が色々の事情で別れてから早くも一年近くになる。当時この別れた事につき好事家の間で果然物議をかもし、両者のプライベートの点はともあれ舞台まで別れて了うという事は真に惜しいと残念がられたものである漫才論であるからその後の一路に関しては書けぬが、この人は頭の良い人物らしい。今の喫茶店の突破とも長かったしかも良い舞台であった。洋容と組んでからも凡ゆる方面から可愛がられた。一路洋容時代の立体を観た客は漫才というものはこんなにスマートでスマイルなものなのかとびっくりして、このコンビの画き出す立体の本意気を娯んだに違いない。千太万吉の枯れた漫才、ヤヂローキタハチの作為的な漫才とは異るニュアンスがあった。
その一路と別れた洋容が、今の麗子を相棒に仕立てゝピアノ伴奏入りという問題の漫才を始めた訳であるがこれは策士策に陥るというから何か墓穴を掘りつゝある感がして、本年四月この新コンビの舞台を上野で観て以来どうなる事かと蓋し心配している次第。パイオニイヤーの道は常にイバラであって洋容の今日の行き方が関西で「立体漫才論」を唱えている秋田実氏とマッチする様になるか。さては自己満足は出来ても果して大衆にアッピールするかどうかは全て?である。もちろん洋容も結果良かれと念じて想を練っての今の舞台であろうからしばらくの間静観してみる。ただし(一)始終ピアノ伴奏を入れているのは邪魔である(二)麗子の今後は洋容の指導如何に掛るが歌をベルカントの発声法で唄うのは少くとも漫才的でない――の二点丈言って置きたい。漫才の歴史も古くかつ新しい。この漫才に大衆がとまどいするか洋容が本当に苦悶するのもここ一、二年。
多くの意見や批判を受けながらも、着々とミュージカル漫才を改良し、認知されかけた矢先――日森麗子が病気で倒れ、コンビ解消。
因みに、日森は、漫才から一線を退いた後、バーのママになったらしく、『産経新聞夕刊』(1960年7月9日号)掲載の小島貞二『漫才ばなし』の中に、「麗子がからだをこわしてやめ、バーのマダムに納まったので……」とある。
一方、由起江が一人前になるまで、相談相手としても暗躍していたと聞く。
相方を失った洋容は、当時、マーガレットシスターズにいた歌手の長谷川幸子と知り合い、引き抜く形で、1954年、コンビを結成。「宮田洋容」と名乗り、「不二幸江」と名付けた幸子とコンビを組んだ。
布地由起江の前歴
出身は北海道。八人兄弟の長女で、親は郵政局の職員というお堅い家柄であった。父親の美幸は海軍軍人で1921年に昭和天皇(当時皇太子)が渡欧する際の御召艦の乗組員であった。1980年に84歳の高齢で亡くなっている。
地元の学校を上がり、高等学校へ進学。小野栄一氏によると、元々は札幌の女学校――北海道立札幌女子高等学校というような事を仰っていた。
小野栄一氏及び娘の小野ひとみ氏によると、当時、積極的に進められていた学校同士の交流活動の一環として、文化祭の合同公演が行われ、シェイクスピア劇が上演される事となった。そこで小野栄一と知り合ったそうで、意気投合。後に大志を抱いて、共に上京を果たした――というのが小野栄一氏の証言であった。
札幌西高校は1950年に学制の再編で男女共学となっているので、最終学歴は札幌西高校で間違いないだろう。
卒業後、小野栄一と共に上京して、コロムビア・レコードに入り、準専属としてジャズを歌っていた。『週刊東京』(1957年8月31日号)『私は発見した 勉強家の不二幸江』によると、
コロムビア・レコードの友達がいい娘がいるから、一度ぜひ会って見ないかというので、銀座の「シック」とか言う地下室にある喫茶店で会ったのですが、聞いてみると、コロムビアの準専属で、ジャズを習っているとか。そのころはいわゆる”前歌”を歌っていた程度なんですね。
そんな、モダンな娘さんが、どうして漫才をやる気になったのかと聞くと
「いつだったか、先生の舞台を見せていただいたら、他の漫才とは何やら違ったふんい気だし、スマートで、その上、歌がいっぱい出てくるのが楽しかったから」
ズバリと思った通りのことをいうんですね。
私のように、長いこと芸能界に生きて来た者にとっては、このズバリ思った通りのことを言葉にするということは、やさしいようでなかなかできないことなんです。
この単刀直入さが気に入ってそのとき以来、しばらく見習いのつもりで私についているようにしましたが、非常に熱心で、小柄な外見にも似ず、タフな勉強ぶりにすっかり感心してしまいました。それは”若さ”から生れてくる迫力とでもいったらいいでしょうか。
そんわけでそれまで組んでいた日森麗子さんとのコンビを解消して、この娘と新しいコンビをつくったのは、NCBの出力五十キロ記念放送(昭和二十九年四月五日)の「お笑いサービス・カー」の時からでした。出しものは、たしか「お笑い花ごよみ八笑人」だったと思います。
本名の長谷川幸子から幸の字を一つだけとって、芸名は不二幸江とつけました。
と、洋容が語っている。
その傍ら、「マーガレットシスターズ」のボーカルとして活躍していた、という話を青空うれし氏や源氏太郎氏より伺った事もある。
マーガレットと親しかった故・源氏太郎氏曰く、
「マーガレットには春日淳子・照代とかも出入りしていて、内田寛さんという人が支配人でした。宮田氏がその人に頼む形でコンビを組んだはずですが……」
との事である。どちらにせよ、歌手の卵の時に宮田洋容にスカウトされた模様である。
本名の「幸子」からヒントを得、「不二幸江」と名付けられる。得意の美声を生かし、宮田の主宰する「漫才オペレッタ」の開拓に一役買った。
その頃の美貌は注目の的だったらしく、『週刊NHKラジオ新聞』(1954年5月30日号)では、トップグラビアを飾った。以下はその写真に添えられた紹介文。如何にも初々しく、あどけなさが残る。
◆ご挨拶……私の職業、おわかりになって? 女優――いいえ。声優――いいえ。歌手!ええと、本当はそれになりたかったんだけど、違うの。言いましょうか。ね、私の商売、漫才なんです。いやーん、そんな顔なすつちや。漫才だって神聖な職業ですわ。私、宮田洋容さんとコンビの不二幸江です。よろしく。
●撮影場所を探して歩きながら……私ね、北海道生まれ、年は二十二。去年の春札幌から出て来ました。ジャズ歌手にあこがれてジャズ学校にもかよってたわ。そしたら、宮田センセが相手を探してらしたの。前の方、胸を悪くしておやめになったんですって。漫才は漫才でも歌う漫才だっていうんで、私テストしていただいたの。よかろうということになりました。なんにも知らないってとこがよかったんですって。それから四ヵ月。漫才つて、むずかしいってことしか、まだわからないわ。 この間、母が札幌から上京して来て、私の舞台を見てったの。 なんて言うかと思ったら「センセの言うことをよくききなさい」って叱られただけ。私ときどきフクレちやうもんだから…。故郷には、父と母と、あときようだい七人。 小さいときから音楽が好きでしよ。 ピアノを習ったり、ラジオで歌ったり、ラジオ・ドラマもやったことがあってよ。 あら、ラジオ新聞は北海道版もあるんですか。うれしい。本名も名乗っとくわ、お友達、みてくれるかも知れないでしよ。長谷川幸子よ。北海道…札幌…いいわ。 でも、もう北海道のこときかないで…。帰りたくなるんですもの。
あっ、バラ。バラよ。芝生のとこに。 あそこで写真撮って。私バラが一番好きなの。トゲがあるから。けなげだわ、自分で自分を守ってるんです
◇…カメラにポーズしながら…◇ 私理屈っぽいかしら?学校のころは数学が得意だったの。 読むものなんか、小説より法律の条文みたいな、 個条書きになつたものが好きなのよ…。ウフフ。
以来、ミュージカル漫才を続投し、ラジオのレギュラー番組を取得するほどの人気を博した。
洋容・由起江の名コンビ
1955年、漫才研究会設立に関与し、コンビで常任理事に就任。
自身の信念に基づいた行動と結束のための努力に奔走したが、まとまらない研究会の体質や芸人同士の癒着や対立に早くから疑問を持っていたようで、『読売新聞夕刊』(1956年5月30日号)の『親の心子知らずの漫才会員くさる宮田洋容』の中でも、
結成当時のとりきめでは公演のつど、一切出演料はとらず、その収益を年一回の大劇場公演にあてるということだった。そこで企画部長をうけたまわった宮田洋容は初秋新橋演舞場で盛大な大会をひらこうと準備をはじめたところ、今までの実収五万円を昨年の忘年会に会員全部で飲んでしまったことがわかり大いに悲観したが、それでも「これから会員全部にゲキをとばし、ラジオやテレビでどんどんかせいでもらって、その何割かを秋の公演準備費にしてもらうつもりだ」と語っている。
と、研究会の杜撰な運営を強く批判している。
1958年、姓名判断に凝り、「宮田羊容」と改名。相方も一緒に「布地由起江」と改名させた。解散までこの名義で活躍する事になるが、従前通り「洋容」名義もあるのでややこしい事この上ない。
1958年3月、漫才研究会に対する不満が爆発し、賛同者六組(高波志光児・光菊、宮島一歩・三国道雄、隆の家栄龍・万龍、森信子・秀子、轟ススム、大津お萬)と共に漫才研究会を一斉に離脱。
賛同者及び関係者と集まり、「東京漫才名人会」を設立。漫才研究会と対抗するようになる。
1961年3月には「東京漫才協会」を設立し、会長となる。賛同者の中には宮島一歩、三国道雄、隆の家栄龍、隆の家万龍、朝日日の丸、桜川ぴん助などがいた。以降、1970年代後半まで両協会の対立が続く事となる。
行動的で理論家だった背景には、熊本生まれの「肥後もっこす」という性格があった事、また同時期の幹部、大空ヒット、都上英二も九州男児の為に反りが合わなかったという話がある。
源氏太郎氏から伺った話では、
「ヒット、英二、洋容……この三人はみんな九州生まれの、九州男児ですから、兎に角我が強かった。その為に三人はそれぞれがそれぞれ喧嘩し、悪く言っていましたし、またそれぞれ思う所があったのではないかと。ヒットと英二は喜代駒親父の身内で、まだ兄弟弟子として、我慢できる部分があったと思いますが、洋容さんは一人であそこまで来た人だから……」
との事であった。やはり三者三様で我慢ならぬ部分が多かったのだろう。
長らく、ミュージカル漫才を続け、新しい漫才のスタイルを模索したのは一つの功績である。作品の多くは上山雅輔(金子みすゞの実弟)や能見正比古(血液型占いの第一人者)が執筆した。
また、歌がうまく、芝居も達者だった所から、コンビと個人個人で映画やドラマに出演。脇役が中心であるが、漫才師の映画出演に一役買ったのは言うまでもない。
以下は、宮田洋容が勤めた配役一覧である。
1956年
裏町のお転婆娘(ボーイ長)
剣豪対豪傑 誉れの決戦(野呂木九助)
のり平の三等亭主(石川 ※不二幸江もハネ子として出演)
金語楼のお巡りさん(気違いの女の父親)
力道山男の魂(大衆酒場の番頭)
新妻鏡(文芸部員・永田)
いで湯の姉妹(甚八老人)
婚約指輪 エンゲージリング(デパートの主任)
1957年
おしゃべり社長(暴力団の男)
東京よいとこ(宗吉 ※道郎・エリックコンビが主演)
星空の街(ギャングB)
大安吉日(ブラさん)
次郎長意外伝 大暴れ三太郎笠(熊ン八)
東京のテキサス人(日下駄の九六 ※道郎・エリックコンビが主演)
サラリーマン出世太閤記(岡田)
次郎長意外伝 大暴れ次郎長一家(桶屋の鬼吉)
1958年
夫婦百景(平六)
おトラさんのホームラン(司会者)
花ざかりおトラさん(司会者)
一丁目一番地(八百久の親父 ※幸江と夫婦役)
三代目 魚河岸の石松(山犬の常)
大番・完結篇(水原)
続ちゃっきり金太(官軍の隊長)
おトラさんのお化け騒動(まこも荘の番頭)
次郎長意外伝 灰神楽木曽の火祭(利七)
続々・サラリーマン出世太閤記(岡田営業所長)
弥次喜多道中記夫婦篇 弥次喜多道中双六(南瓜の胡麻汁)
1959年
乙女の祈り(安田)
新・三等重役(荒尾年夫)
若い恋人たち(北原)
爆笑水戸黄門漫遊記(孫右衛門)
顔役と爆弾娘(忠助)
1960年
サラリーガール読本 むだ口かげ口へらず口(紳士)
侍とお姐ちゃん(岩田中原産業専務)
新・三等重役 旅と女と酒の巻(松岡支店長)
まぼろし探偵 地底人襲来(山火)
サラリーマン出世太閤記・完結篇 花婿部長No.1(守衛)
新・三等重役 当るも八卦の巻(重役)
羽織の大将(クラブの支配人)
サラリーマン御意見帖 出世無用(畑中係長)
接吻泥棒(洋品屋の親父)
新・三等重役 亭主教育の巻(南部太郎)
八百屋お七 江戸祭り一番娘(岡っ引安五郎)
がめつい奴(救急車の係官)
花のセールスマン 背広三四郎(電気器店主人)
ガス人間第一号(銀行の支配人)
殴り込み女社長(田代)
サラリーマン忠臣蔵(吉田課長)
1961年
背広三四郎 男は度胸 花の一本背負い(教頭先生)
出世コースに進路をとれ(警官)
サラリーマン奥様心得帖(菅野課長)
私は嘘は申しません(宣伝部主任)
金づくり無法時代(浜むらの板前 ※女将役は都家かつ江)
続・サラリーマン弥次喜多道中(山本)
アワモリ君売出す(パチンコ屋の客)
アワモリ君乾杯!(パチンコ屋の客)
トイレット部長(富田)
新入社員十番勝負(池上庶務課長)
B・G物語 二十才の設計(花島課長)
1962年
続・新入社員十番勝負 サラリーマン一刀流(池上庶務課長)
銀座の若大将(小島)
続・サラリーマン清水港(バスの中の男)
社長洋行記(結婚式場の写真師)
重役候補生No.1(山岡支店長)
ニッポン無責任時代(交通取締の警官)
若い季節(工場長)
1963年
サラリーマン無鉄砲一家(平山源次)
社長外遊記(ネクタイを買う客)
ホノルル・東京・香港(マッサージ師)
1964年
君も出世ができる(重役A)
花のお江戸の無責任(あたりや)
1965年
続西の王将・東の大将(大森)
1966年
日本一のゴリガン男(黒田)
やわ肌ざんげ(都六太郎)
1967年
続・社長千一夜(パパA)
洋容は荻窪と新宿にバー「マンザイ」を開業し、副業として経営するなど、経営者としての才覚も見せた。
1974年、長年組んだ布地由起江とのコンビを解消。コンビ解散の背景には自身の老いや由起江の才能を惜しんでの解散だったという。
コンビ解消後まもなく東京漫才協会から抜け、洋容は再び漫才協団に戻っている。その後、暫くは漫才コンビを組まず、バー「マンザイ」の経営や後輩の育成などに力を注いでいた。
由起江は「ふじゆきえ」と改名し、コント「タローとハナコ」にいたハナコ(本名・野村佳世 1944年1月10日~ご健在 東京生まれ)とコンビを結成。「ふじゆきえ・はなこ」の女流漫才になる。
洋容のその後
1975年、日本へ留学に来ていたPhilip Greisman(1945年6月5日〜ご健在 カリフォルニア出身、サンフランシスコ大学東洋学科卒)とコンビを組み、「宮田洋容・宮田フィリップ」を結成。異色の漫才として注目を集めた。一時期、「ミヤタ洋容」とも名乗った事もあった。
フィリップ・グレイスマンはサンフランシスコ大学の修士課程(中国語)や国防省勤務などを経て、日本語を取得。1972年頃に来日。しばらくは勉学に励んでいたが、上智大学の関係者の仲立ちで、コンビを組んだ。
長老と若い外国人との漫才は相応の人気を集め、テレビや漫才大会などに出演。因みにフィリップ氏はYouTubeのチャンネルを開設している。気になる人は、視聴してみてください。
1976年、LP『東京漫才のすべて』で、コロムビアトップと対談。かつてのライバルとの関係も氷解し、和気藹々とした感じで話をしている。
1980年には、フィリップと共に、徹子の部屋に出演。他にも演芸番組に出演するなど、ささやかな老後を送ったが、このころから病気に苦しむようになる。
1983年5月26日、海老名市で行われた「漫才大会」の仕事を最後にして、闘病生活に入る。7月11日午前6時、結腸癌のため、自宅で急逝。以下は『読売新聞』(1983年7月12日号)に掲載された訃報。
音入り漫才で売る
宮田洋容氏(みやた・ようよう、本名・岩下信夫=いわした・のぶお=漫才師)十一日午前六時、結腸ガンのため、東京都杉並区高円寺南三の七の六の自宅で死去。六十八歳。告別式は同区松ノ木三の大法寺で。喪主は長男、日出雄(ひでお)氏。
二十九年、不二幸江とコンビを組み、舞台の上にピアノやアコーディオンを持ち込んでの音入り漫才”漫才オペレッタ”で売り出し、歌入りで世相を風刺、話題を呼んだ。また、修善寺物語、金色夜叉やリア王、ハムレットなど古今の名作をパロディー化した文芸漫才にも新境地を開いた。
最近は漫才協団の相談役として後進の指導に当たっていたが、米国人を相手に洋容・フィリップのコンビを組み、時おり舞台にも姿見せていた。また、新宿にも異色の漫才パブを開き、自らも即興漫談を披露するなど、元気なところを見せていた。さる五月、神奈川県海老名市で開かれた漫才協団主催の漫才大会が最後の舞台となった。
布地由起江のその後
「ふじゆきえ・はなこ」と改名後、これまでの音曲漫才から、フレッシュで女性ならではの視点を生かしたしゃべくり漫才へと心機一転。「蝶々夫人」や「カルメン」などオペラを取り入れた独特の漫才を展開した。
1977年5月上席、浅草演芸ホールに出演。定席に出演するようになる。同年、落語協会に入会。色物の一組として、寄席や落語会、名人会などで活躍。東京漫才の貴重な女流漫才として、奮闘を続けた。
私生活では麻雀が大好きで、東和子や西〆子とは雀友であった。また、古今亭圓菊や古今亭志ん朝などとも仲が良かったという。老いてもなお衰えぬ美貌と美声は、多くの若手芸人の心を射止めたらしく、今活躍している噺家さんの中でも、未だに敬愛や憧れの念を持っている人もいるという。
1997年10月13日、ふじはなこがくも膜下出血に倒れ、リハビリ生活を送る事となったため、舞台から距離を置く事となった。この頃、ゆきえも胆石などの病を患った。
1998年12月26日、金原亭馬治独演会で1年ぶりに舞台へ復帰。それ以降は体調に気を付けながら、「手話漫才」を考案。障がいを持つ人でも楽しめる漫才へと発展させ、ライフワークとして取り組んだ。
70過ぎた後も艶と美貌を失わず、達者な話芸と斬新なネタを武器に、寄席や落語会に出演していたが、老齢やはなこの体調などの事情が重なり、2005年12月限りで落語協会を退会、2006年引退した。
引退後は、千葉の高級老人ホームに入居し、悠々自適の生活を送った。聞いた話では、短歌づくりに精を出しているとのことである。今年、宮田羊かん氏に連絡したところ、ご健在だと聞いたが、詳細は不明。市井の人として暮らしている模様――とのみ記しておく。
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