丸の内権三・助十

丸の内権三・助十

 人 物

 まるうち 権三ごんざ
 ・本 名 荒木 幸男
 ・生没年 1921年4月9日~?
 ・出身地 東京

 まるうち 助十すけじゅう
 ・本 名 小関 梅次郎
 ・生没年 1922年2月2日~??
 ・出身地 東京

 来 歴

 戦後活躍した漫才師。戦後直後にデビューしながら、売り出すのは1960年後半というすさまじく変則的なコンビであった。芸名の由来は、岡本綺堂『権三と助十』であろう。

 本名・生年月日、出身等は『文化人名録』から割り出した。写真も某歌謡ショウの司会者として出演しているものを発見し、ついに入手した。

 権三は元々サラリーマンであったが、戦後に漫才師になった変わり種。

 1967年に行われた第15回「漫才コンクール」のパンフレットに載せられた情報によると、元はサラリーマンであったが、終戦と前後して退職し、喜劇一座の「ムーランルージュ」に入団。由利徹や森繁久彌などの名優に混じってボードビリアンの修業を始めるが、同館の経営悪化に伴い、漫才に転向した――とある。

 相方の助十も同じく、サラリーマンをしていたそうであるが、終戦と共にサラリーマンを退職し、漫才に転向したという変わり種。ただ、権三と違いストレートに漫才界に入ったためか、年下で先輩という不思議な関係にあった。相方をとっかえひっかえて漫才をやっていたという。

 1951年に権三と出会い、コンビ結成。フレッシュな若手として売り出し、主に司会漫才を武器に活躍した。

 ただし、その司会漫才という安住の地を得てしまったせいか、後輩分のてんや・わんや、天才・秀才といった面々と大きく差を引き離される羽目になった。

 その頃の活動と欠点が『アサヒ芸能新聞』(1954年5月2週号)に出ているので引用。

 丸の内権三・助十

この間ラジオ東京だかに出ていたような気がしたが、ともかく放送が少くない。移動演劇に付属しているわけであるが、そのためかどうか中央で見かける機会が少くない。かつて権三・助十でスタートした当座は旭日昇天に近いものがあったがここ数年歌謡曲の司会等で安住してしまった感があるが如何。一応先輩であるのだからセレモニイ等は新人にまかせてこの辺でじっくり漫才をきかせるための一案あってよさそうな時期。祈大活

 もっとも、漫才界と縁がなかったわけではなく、1955年の漫才研究会結成に伴い、入会しているほか、漫才大会にはしょっちゅう出演した。良くも悪くも一定の活躍が、彼らに大きな飛躍を与えなかった模様。

 それでも話術の方は達者で、聞く人が聞けばよくわかる、玄人好みのする芸だったらしく、色川武大『寄席放浪記』掲載の談志との対談で、

立川 丸の内権三・助十というのはどうだった?
色川 丸の内権三というのは、そういえば居たけど、観たことないね。
立川 僕はラジオで聴いて、いい口調だったな。

 という記載を発見する事が出来る。

 以来、漫才研究会の中堅として、主に司会漫才の巡業、浅草の劇場に出演するなど――よくもわるくも、くすぶっていたが、1960年代になって、心機一転をしたのか、中央に復帰する。

 1966年2月26日に行われた第14回NHK漫才コンクールに出場、「脱線スポーツ放送」というネタで、準優勝を獲得(優勝はチック・タック)。この時、45歳と44歳だったというのだから、凄まじい。

 この頃、漫才協団の中堅グループ「グループQ」結成に関与している。新山ノリロー・トリローや大空なんだ・かんだなどが入会している。

 1967年2月25日に行われた第15回NHK漫才コンクールで、「アダムとイブの物語」を披露。この時は惜しくも入賞はしなかった。

 遠藤佳三氏から伺った話では「小島貞二が、千太・万吉のような味わいのあるコンビだってねえ、褒めておりましたよ」。

 翌1968年3月2日に行われた第16回NHK漫才コンクールに出場し、「思い出の兵隊さん」で特別賞受賞。47歳と46歳のコンビは、漫才コンクール史上最年長での受賞者でもあった。

 以降は権三同様、竹演芸場やメディアで、活躍している様子が伺えるが、1970年代に入ると、コンビを解消し、消息不明となる。

 1975年の名簿には、もう名前がない所から、1970年代初頭に解散したと見るべきか。

 漫才コンクールで名を残した割には一つも判らない不思議な存在である。資料・ご遺族等ご存じな事がありましたら、ご一報ください。

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