酔月楼とり三・唄の家なり駒

酔月楼とり三・唄の家なり駒

とり三・なり駒(左)

人物

 人 物

 酔月楼すいげつろう とりぞう
 ・本 名 長谷部 酉三郎
 ・生没年 1890年代~1960年代?
 ・出身地 東京?

 うた なりこま
 ・本 名 前田 喜平
 ・生没年 1902年頃~1960年?
 ・出身地 兵庫県 神戸

 来 歴

 ほとんどを関西で過ごしたため、東京漫才に含めていいかどうかすごく迷うところであるが、とり三が、春風枝雀・かほるのかほるの叔父にあたるため、ここでは採用した。

とり三の経歴

 とり三の経歴は『民族芸能』(340~387号)掲載の春風かほる聞き書きに詳しい(本来は枝雀の聞き書きであったが、枝雀逝去のため、補足として妻のかほるに聞いたもの)。

 とり三の話は、373~375号に出てくる。引用はいろいろとうるさいので、概要のみ記す。

 とり三は元々関東の出身(東京)であったというが、思うところあって、大阪へ移り、漫才に転向。後年、籠寅興行に入り、更に吉本興業と渡り歩いたのだという。その為、舞台でも標準語風の言葉をずっと使っていた。

 大阪へ移った後、かほるの父・西原松次郎の妹の西原さよと結婚し、大阪に居を構えた。このさよという女性は、女傑だったそうで、「切られのさよ」の異名をとったという。

 かほるによると、一度材木問屋の嫁に入ったものの、婿が問題を起こし離縁。その後、婿がストーカーまがいのことをはじめ、人力車に乗っていたさよを包丁で切りつける凶行に至った。この時に傷つけられた跡が、晩年まで残っていたという。

 そういう過去があったせいか、あるいは慰謝料を払われたのか、大阪山王町に「タケチ旅館」なる店をはじめ、多くの宿泊客を泊める一方で、夫の関係から芸人にお金を貸すこともやっていたそうで、なかなかのやり手だったらしい。この旅館には、花菱アチャコなども訪れていたという。

 そんな妻を持ったことから、とり三の生活はわりかし豊かだったらしく、一度はかほるを養女に迎える話も出ていたくらいであった。性格も優しく、誰にでも人当たりのいい人物だったようである。

 大阪へ移った後は、一時期千歳家今男と組んでやっていたことがある。アチャコが、今男と別れた直後らしいので、古いといえば古い。研究サイト『上方落語史料集成』を覗くと、1932年11月に、

△天満花月 小円馬、馬生、福団治、五郎、染丸、とり三・今男、歌江・鶴春、重隆、武司(剣舞)、春団治

 とあるのが、一番最初の記録か。

 1933年に入ると、記録が増え、1月31日より、

△北新地花月倶楽部 九里丸、柳好、次郎・志乃武、春団治、石田一松、小文治、延若、八重子・福治笛亀、文治郎、とり三・今男、紋十郎・五郎、一郎、馬生、染蔵等花月幹部連

 3月21日より、京都の各寄席に出演。

△新京極富貴 林家正蔵、柳家三亀松、千橘、延若、吉花会女連(舞踊競争)、三木助、喬之助、扇遊、春子・政春、円枝、静代・文男、とり三・今男、染丸、三馬、三八、右之助。「舞踊オリムピツク(三人舞踊)」の審判は千橘、延若が一日替りにて勤むる。  

△千本長久亭 とり三・今男、千橘、一春・団之助、円枝、夢路・夢若、喬之助、三木助、染丸、小金・小三、延若、時子・団治、三八、八重吉・小福、扇遊、竹馬等。

 6月1日からは大阪の劇場に出演、

 △福島花月 文治郎、円枝、三木助、馬生ら花月連に十郎・雁玉、末子・三好、歳男・今若、とり三・今男、すみれ・梅三他選抜万歳連、ベビー・レヴユー団等。

 翌7月も21日から始まる下席に出演。ここに林家染團治が出ているのが、面白い。

 △新京極富貴 千枝里・染丸、三木助、喬之助、千家松博王一行、延若、雅子・染団治、一郎、円枝、日左丸・ラツパ、三馬、重隆・武司、とり三・今男、三八他花月連の納涼爆笑陣。

 1934年3月、京都に出勤。

△新京極富貴 枝鶴、福団治、三馬、文治郎、正蔵、円馬、とり三・今男、松子・呉成錬、栄二郎・六三郎、五郎・雪江。

 同年7月も、京都に出勤。

△新京極富貴 クレバ・栄治・清(曲技)、福団治、文男・静代、五郎、日左丸・ラツパ、円枝、円若、染丸、今男・とり三、三馬、源朝、三八。

 1934年8月1日より、北新地花月倶楽部に出演。

△北新地花月倶楽部 神田伯龍(怪談)、九里丸、三木助、エンタツ・アチヤコ、雁玉・十郎、石田一松、日左丸・ラツパ、円馬、今男・とり三、延若、栄治・清、小円馬。

 これが、今男・とり三としての最後の仕事であった模様。この直後、二人はコンビ解消する。

 1934年9月、今男と別れたとり三は唄の家なり駒とコンビを結成。解散の背景には、件のエンタツ・アチャコ解散事件(アチャコが中耳炎で入院している間にエンタツと吉本興業幹部によって、コンビ解消が告げられた一連の騒動)と、アチャコが今男とよりを戻したことがあったようである。

なり駒の経歴

 新たな相方になった唄の家なり駒は、純粋な関西人で、『大衆芸能資料集成』によると、神戸出身だったらしい。そのため、しゃべり方や口調も全て関西弁を使っていた。この人の甥が、先日亡くなったWヤングの平川幸男である。関係性までは不明。

 若い頃に、唄の家ライオンの門下に入り、唄の家なり駒と名乗った。

 師匠・ライオンは、その芸名通り、大音量の音曲を得意とした人で、戦前上方演芸界における大御所の一人であったという。

 この人の門下で、「唄の家ライト」と名乗っていたのが、後年東京漫才で一世を風靡した宮田羊容である。

人気者二人

 二人の初舞台は、1934年9月2日から行われた漫才大会だろうか。 

◇吉本の精鋭が揃って多聞座に漫才大會

 新開地多聞座は、金井修一座が東京公園劇場に出演するため八日打上げとなり、十一日から新たな陣容で開演するが、その間九、十の両日限り臨時編成として吉本興行の誇る漫才幹部を精つて「吉本漫才大會」を開催と決定、出演の顔触れを見れば近来にない笑いの爆撃陣であり二日間限りの短期開演とて人気を呼ぶことと思われる。

(アチャコ、今男)(雪江、五郎)(文雄、静代)(川柳、花蝶)(成三郎、玉枝)(奴、喜蝶)(千代八、八千代)(三好、米子)(夢若、光晴)(なり駒、とり三)龍光(水月、朝江)(一蝶、美代子)(公園、男蝶)(正坊、艶子)(團ノ助、ボテ丸)(花奴、登吉)(文照、静香)

 出演者の中に、二人の名前が出ているのが確認できる。

 1935年は正月から、大阪の花月に出勤。

△福島花月 喜昇・芳子、蔵之助、成駒・とり三、〆廼家歌踊劇団、文治郎、光晴・愛子、五郎、エンタツ・エノスケ、結城孫三郎一座、春団治、小円馬、円馬、文昭・静香。

 7月、京都に出勤。

△新京極富貴 三馬、三木助、小円馬、円枝、馬生、右之助、三八、亀鶴(足芸)、一郎(曲芸)とり三・なり駒、紋十郎・五郎、その他吉本特選漫才連が花月劇場とかけ持ちの出演。

 8月は大阪に戻り、下席に出演。

△北新地花月倶楽部 おもちや、光月・藤男、扇遊、庫吉・芳奴、馬生、夢若・夢路、円枝、とり三・なり駒、円若、九里丸、雁玉・十郎、三木助、一光、神田ろ山。

 9月上旬、京都花月劇場に出勤。更に21日より、大阪に戻って福島花月に出勤。

△福島花月 小円馬、染蔵、朝丸・幸若、団之助・一春、文治郎、エンタツ・エノスケ、正光、三木助、なり駒・とり三、染丸、水月・朝江、一郎、雁玉・十郎、蔵之助、日左丸・キリン。

 12月21日より、京都に出勤。ここで年を越すこととなった。

△新京極富貴 正光、春団治、扇遊、染団治・雅子、六三郎・栄二郎、染丸、一光、三木助、次郎・源若、九里丸、なり駒・とり三、三八、三馬、右之助。

 1936年正月、テイチクレコードから『吉本興業提供・漫才レコード大会』が発売。とり三・なり駒も『ドスベラ棒』を吹き込んだ。

 関西弁丸出しのなり駒と、関東弁のとり三が東京と関西の名所で論争し、最後に「関西には、ドスという立派な武器がある」「こっちにはべら棒というものがある」と喧嘩腰になるネタ。決してレベルが高いとは思わないが二人の声や芸風がしのべる。

 余談であるが、これ以外に吹き込んだのが、松鶴家千代八・八千代『八ちゃんの都都逸』、桜川末子・花子『お陽気漫才』、一輪亭花蝶・三遊亭川柳『亀は万年』、林美津子・宮川小松月『気の小さい女』、立美三好・末子『とんちんかん放送』、桂金吾・花園愛子『珍軍縮会議』、浮世亭夢若・松鶴家光晴『初子』、浪花家市松・芳子『脱線流行歌』、都家文雄・静代『ボヤキ漫才』である。

 同年3月、京都に出勤。

△新京極富貴 文雄・静代、三木助、正光、千橘、エンタツ・エノスケ、小円馬、成三郎・玉枝、扇遊、三八、神田伯龍、なり駒・とり三、三馬、二郎、蔵之助、右之助。

 同年5月、またしても京都に出勤。このコンビは京都を拠点としたといっても過言ではない気がする。

△新京極富貴 川柳・花蝶、文楽、松鶴、文雄・静代、円若、紋十郎、小円馬、幸児・静児、奴・喜蝶、蔵之助、なり駒・とり三、ろ山、三好・小松月、三馬、三八、右之助。

 同年8月、京都へ出勤。

△新京極富貴 右之助、三八、三馬、次郎・源若、おもちや、松鶴、とり三・なり駒、馬生、紋十郎・円若、円馬、繁子・洋々、円枝、左楽・右楽、竜光、静代・文雄。

 同年10月、4度目の京都へ出勤。この年は、ほとんど京都で過ごしていたようなものである。

△新京極富貴 エンタツ・エノスケ、松鶴、文雄・静代、円枝、武司・吉忠、馬生、光晴・夢若、文治郎、一光、蔵之助、なり駒・とり三、三馬、三好・末子、円若・紋十郎。

 1937年2月1日より、北新地花月に出演。

△北新地花月倶楽部 蔓亀、おもちゃ、出羽助・竹幸、石田一松、千代八・八千代、円若、松鶴、右楽・左楽、林芳男、洋々・繁子、武司・義忠、末子・三好、染丸、とり三・なり駒。

 3月31日、京都花月劇場の漫才大会に出演。ほかのメンバーは、五郎・雪江、染團治・雅子、玉枝・成三郎、お蝶・公園、七五三・都枝。(『近代歌舞伎年表京都篇 第十巻』より)

 また、翌日から、京都富貴も掛け持ちしている。

△新京極富貴 右之助、三馬、クリスケ・クリカク、三八、英二・のぼる、蔵之助、とり三・なり駒、文治郎、幸児・静児、円馬、雪江・五郎、芳男、成三郎・玉枝、松鶴、染団治・雅子。

 6月11日より、京都花月劇場の漫才大会に出演。共演者は、アチャコ・今男、柳枝・一駒、洋々・繁子、喜昇・芳子、虎春・秀子など。(『近代歌舞伎年表京都篇 第十巻』より)

 7月、京都に出勤。

△新京極富貴 右之助、三八、九里輔・九里角、三馬、なり駒・とり三、柳亭春楽(声色百種)、林家正蔵、

 1939年頃、なり駒は籠寅興行に、とり三は新興演芸部に移籍して、コンビを解消。とり三は、中井染丸という相方とコンビを変えている。

 1939年5月15日、新興演芸部旗揚げに伴う大会に列席(『近代歌舞伎年表京都篇 第十巻』より)。

〇五月十五日~二十二日 松竹劇場

 しんこうぼーいずショウ われらの楽園 十景 
【出 演】新加入(オオタケタモツ 中村弘高 石井弘 伴淳三郎 山茶 花究)
 日支親善社会劇 支那の花嫁 二場 宮村五貞楽一座
 インテリ漫劇 東喜代駒 ビクター専属 楠正子 
 浪曲 木村若衛 (毎日演題変更)
 漫才・漫談
【出 演】兵隊万才 ハリキリ麦兵・トツカン花兵 音曲漫才 若葉サヨ子・富士蓉子 大相撲漫談 栗島狭衣 万歳 酔月楼とり三・中井染丸

 さらに延長公演にも列席(『近代歌舞伎年表京都篇 第十巻』)。

〇五月二十三日~ 松竹劇場

しんこうぼうぃずショウ われらの楽園 十景 
【出 演】新興ホントボンボンズ (豊島園彦 日比谷公 浜美奈登 丸の内街男 銀武良夫 御里夢忠)オールジャパンスヰングオーケストラ演奏

土産のりんご 二場 宮村五貞楽大一座
田中祥弘作 雷門五郎脚色 高木益美編曲
かつぽれ法界坊 四幕 かみなりもん舞踊座 第一回公演
【出 演】雷門五郎 雷門緑郎 実川泰正 浅野八重子 浅野百合子 御室和子 日高松子 竹久よしみ 桜井京子 水上靖子
浪 曲 キングレコード専属 隅田 梅若
漫 才 
【出 演】溌剌新漫才 酔月楼とり三・中井染丸 兵隊漫才 ハリキリ麦兵・トツカン花兵 秋山ヒゲ虎・富士野芳夫 音曲漫才 若葉サヨ子・富士蓉子

 6月1日、角座で行われた「新興演芸部大阪進出披露興行」に列席。

 ほかの出演者は、ミスワカ子・桂春雨、ムラセスイング・ジャズ子、酔月楼とり三・中井染丸、松葉家奴・吉野喜蝶、香島ラッキー・御園セブン、ハットボンボンズ、浅田家日佐丸・平和ラッパ、ミスワカナ・玉松一郎、あきれたボーイズショウ。(『近代歌舞伎年表京都篇 第十巻』より)

 7月8日〜10日、角座で行われた「タイヘイグランドショウ」に、とり三・染丸で出演。(『近代歌舞伎年表京都篇 第十巻』より)

コンビ解消とその後

 籠寅に移ったなり駒は、唄の家成太郎、唄の家駒坊、更には唄の家若駒と組みなおしたほか、照駒・若駒・なり駒のトリオでやっている痕跡もある

 1939年4月、籠寅演芸部の漫才大会に出演。東京漫才が多いのに注目せよ。

四月十七日〜(二十六)日 南座 籠寅演芸部 時局まんざい大会 

【出 演】関東側 轟スゝム・サノアケミ 永田繁子・女一休 吉原家〆吉・〆坊 唄の家成太郎・なり駒 端唄とん子・美代司 ピツコロシヨウ 永田一休・和尚 菊川時之助・大津検花奴 春風小柳・桂木東声 カクテルシヨウ(カクテルジン ウイスキー ベルモットマンハッタン ウオツカ キユウラソ

 1939年7月、京極演芸場に出演。トリオになっているのに注目。

〇七月二十二日~ 毎日十一時開演 勢国館改京極演芸館

乱闘劇 不知火お仙 四景 大内洵子一座
カクテル・シヨウ 高井カクテル他数名
籠寅のまんざい 籠寅漫才連 
【出 演】照駒・若駒・成駒 リツコ・アキラ 東声・小柳 勝子・捨次 芸児・凡児 君勇・喜久三 丸女・源一 アオバ・由良丸

 10月1日、浪花座で行われた「籠寅のまんざい秋季大会」に列席。出演者は、

ススム・アケミ、尚子・代志子、里子・文弥、色香・圓太郎、華枝・茶福呂、駒坊・成駒、種二・ちどり、捨丸・春代、端唄とん子・美代司、小夜子・直之助、ナンジャラホワーズ、アクロバツチツクバー。(『近代歌舞伎年表京都篇 第十巻』より)

 長く新興演芸部と籠寅の看板として売り出すが、戦局悪化に伴い、仕事もままならなくなる。染丸とのコンビを解消。染丸は、神戸の寄席に出演するようになった。

 春風かほるによると、とり三夫妻は、戦況の悪化に伴い、旅館を閉鎖して、屋敷と土地一切を売り払い、その売り上げを持って四国に疎開したという。その為、一時期芸能界から距離を置くこととなった。

 戦後、とり三は大阪に戻り、なり駒とコンビを再結成。1947年10月に行われた漫才大会に出ている様子が確認できたので引用。

 ●十月(一)日〜  午前十一時ヨリ三回 京極演芸館

 二ツの恋の物語 二幕 軽演劇団ニューキヨート

漫才大会
【出演】秋野千草・北斗七星 秋田右め菊・右め助 風流松子・歌江 浮世亭夢若・松鶴家光晴 浪曲節まね 浪花太郎 奇術一陽斎 都一 (五日迄)高田朝江・水月 浮世亭夢丸・志津子 松葉蝶子・東五九童 (六日ヨリ) 酔月とり三・唄ノ家成駒 九丈竹幸・浮世亭出羽助

『近代歌舞伎年表京都篇 10巻』

 この後、間もなくコンビを解消。とり三は漫才から一線を退いた模様。妻がやっていた芸能社や、姪夫婦の面倒を見ていた模様である。

 姪夫婦が上京する1953年頃まで元気だったらしいが間もなく体調を崩して、療養生活を送るようになり、1960年代に亡くなったらしい。ただし、上方演芸協会には一応加入している。

 最後に姪夫婦がとり三にあったのは、久方ぶりに大阪へやってきた時で、その時にはずいぶん弱っていたという。客に来た二人に「湯葉が食べたい」としきりにねだって、かほるがこれを作って、食べさせた、という逸話が残っている。妻のさよは、夫を見送った後、もう少し生きていたという。

 なり駒は、同門の千葉なり太とコンビを結成し、焼け残った寄席に出演。そのころの芸風が、『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』(162頁)に出ているので引用する。

米 朝 あるね、誰と組んでもうまいなァと思ったのは守住田鶴子さんや。
    あの田鶴子さんの旦那が唄の家なり駒・千葉なり太のなり太という人やった。なり駒はんというのはWヤングの平川幸雄の叔父さんやねん。なり駒はんというのは古い芸人でな、私はこの人の高座を一、二回見たンやけれどもうまい漫才やった。京都の富貴で一緒になった時にな、楽屋で桂右之助はんが、「なり駒はんという名前が出てたンでな、ひょっとしたら昔のなり駒さんかいなと思って来たら、やっぱりそうだしたンかい」「いや、もうあんさんとも古い馴染みだんなァ」と話とったわ。その時の相方がなり太という人で、やっぱりよう受けさしていた。あの〽主を寝かして、布団を着せて、四隅押さえて針仕事、ほんに女房はつらいもの……、じゃという身になってみたいな……、というこれはええ文句やで。女郎やなんかがそういう身になってみたいなァという歌があるねンだけど、それをうたいながらな、〽主を寝かして……、というところでなり太はんを寝かしてしまいよンねん。なり駒はんが横で女の格好で。終いに顔へ白い布をかぶせよる。「この人もこない早う……」「嫌じゃ! わしは」(笑)。それがトリネタやった。それだけは覚えているわ。

 花月亭九里丸『笑魂系図』には、「唄の家なり駒 昭三五年(五八才)」とあり、その辺で没したことが記されているが、甥の平川幸男を西川ヒノデに紹介したのが、1961年ということになっているので、つじつまが合わない。どうしたものだろうか

 但し、その前後で死んだのは、確かなことであろう。

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