林家染芳・春子

林家染芳・春子

大江茂と林家染芳(右)

林正二郎時代の染芳

 人 物

 林家はやしや 染芳そめよし
 ・本 名 佐々木 洋
 ・生没年 1907年3月31日~1991年3月20日
 ・出身地 広島県 呉市

 林家はやしや 春子はるこ
 ・本 名 佐々木 はる枝
 ・生没年 1910年代?~1943年6月10日
 ・出身地 石川県 珠洲市

 来 歴

 戦前は東京、戦後は関西で活躍した漫才師。関西曲芸界の大御所、ラッキー幸治の父親であり、内海桂子の戦前の相方としての方が有名だろうか。

 本項執筆にあたり、ラッキー幸治氏及び、ラッキー舞氏への証言が大変役に立った。感謝申し上げると共に、先年急逝したラッキー幸治氏のご冥福をお祈り申し上げます。

 林家染芳の前歴には謎が多く、ラッキー幸治氏もご存知ではない、とのことであったが、相羽秋夫『上方演芸人名鑑』の中に、

はじめ喜劇畑にいたが、昭一〇年林家染団治門下となって、林家染芳の名で、夫人の林家春子と共に漫才に転向

と、あり、喜劇役者の出身だったという。旧芸名は「とんぼ」といったそうであるが、詳細は不明。

 但し、三国道雄が敗戦直後に出演した『月刊読売』(1949年11月号)を読むと「三国ミチオ・トンボ」とあるのが気になる。三国道雄と年齢も近く、修業時代も類似している所を見ると、田宮貞楽の喜劇一座などにも関与した模様か。

 大阪時代は主に巡業が中心であったが、石川県巡業の折に出逢ったはる枝と結婚し、漫才に転向。林家染團治主宰の「林家会」の身内となり、「林家染芳・春子」と改名する。

 漫才転向の詳細は不明であるが、先述の相羽氏の本の記載も踏まえると、1935年ごろにはもう活躍しており、その頃には東京にも定住していた、と解釈するのが妥当か。

 その後は、浅草を中心に活躍。林家染團治の庇護を受けて、中々売れていた模様である。

 1940年5月18日は息子の幸治誕生(幸治の上にもう一人いる)。子供に恵まれ、幸せな家庭生活を営もうとした刹那、肺結核に罹患し、病の床に臥せるようになる。

 そのため、夫の染芳は他人とコンビを組むようになった。その中の一人が、内海桂子である。但し、1938年には、砂川捨夫(大江茂)とコンビを組んでおり、判らない点が多い。

 林家春子は夫闘病生活に努めていたが、1943年、と息子の行く末を案じながら、30代の若さで夭折。息子の幸治はまだ3歳であった。

 1943年、三桝家好子(内海桂子)とコンビを結成。このコンビ自体は割かし長く続き、軍事慰問にも参加をして、奥満州にまで巡業に行くなど、相応の活躍を見せた。達者な漫才には定評があり、「内海桂子の泥を吐かせた」と自負していた所があったという。

 その一方で、林家春子の死や男女関係のこじれもあり、染芳は好子とコンビ以上の関係を持つようになった。後に事実婚のまま、一女を儲けている。更に、ラッキー幸治を育てるなど、事実婚の中で母親を演じるという複雑な関係を構成することとなった。

 また、この頃から染芳は、ヒロポンに手を出すようになり、この薬害が戦後まで尾を引いた。

 敗戦後、元来の博打好きに加えて、ヒロポン中毒の症状が酷く顕れるようになり、仕事へは行かず、薬と麻雀三昧の堕落的な生活を送っていた。息子のラッキー幸治は、この事を振り返って、

実母が病気で亡くなったのは私が幼い頃。
父は義理の母(内海桂子)と再婚、夫婦漫才をやっていました。
義理の母は働き者で、私が6歳で内弟子に入るまで、仕事が無く麻雀ばかりしていた父の代わりに懸命に働き、家計を支えてくれたのです。

 と、ホームページの回顧録に記している。実の息子にさえ、そういわれるのだから、相当酷い生活を送っていた模様である。また内海桂子の自著にも似たような記載が並べられている。

困ったことに、亭主の染芳は暇なものですから、賭け事に熱中し始め、たまに仕事をやってお金が入ってきたかと思うと、博打に出かけるのでした。たとえ博打で儲けても、染芳は、
「これは元手だから、渡せない」
 と言って、ビタ一文出したがりません。とにかく米櫃が底をつこうがどうしようが素知らぬ顔なのです。腹巻がふくらむほど、中にお金があっても金輪際出したくないのが博打をやる人の本性なのでしょうか。「一夜大臣の一夜乞食」といって、たまに博打で儲かればみんなに大盤振舞をして、儲からないときはおかみさんは寒中、浴衣一枚で震えているなんてことがあるのです。
 それも我慢できれば、破れ鍋に綴じ蓋で、うまくいったのでしょうが、私はそれができず、私のほうが働き始めたものですから、「うちの嫁はんはしっかり者やよって、放っててもええのゃ」と、今度は私におんぶしてきたわけです。

 1948年、薬物中毒と博打の堕落的な生活の末に内海桂子と離婚。

 暫く荒れた日々を過ごしていたが、後に中毒を克服し、古巣の大阪へ帰郷。「林正二郎」と改名して、再び漫才師として舞台に立つ。また、凸凹ボップ・ホープという名前で、大阪の住所が記されてもいるが、これまた謎が多い。

 1950年代より、旧知の鹿島洋々と、1965年の出演者名簿には、「凸凹ボップ・ホープ」とある。1965年ころ、鹿島洋々とコンビを解消し、一度一線を退く。

 1967年6月より、上方漫才の長老・一輪亭花蝶に請われる形で彼とコンビと組んだが、同年、花蝶が急逝したことを機に、漫才界から一線を退いた。

 以降は松竹刑の劇場である新世界花月の頭取に就任し、芸人たちを取りまとめた。1987年の新花月閉鎖後は完全に芸能界から一線を退いたそうで、息子のラッキー幸治や孫のラッキー舞に恵まれ、穏やかな晩年を過ごしたという。

コメント

  1. […] 芳は、戦前、東京漫才で活躍した漫才師。大阪で人気を集めた曲芸師のラッキー幸治の親であり、内海桂子と一時期夫婦だったのは有名。詳しくは、『東京漫才のすべて』を参照にせよ。 […]

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