天野操・春ノ金茶久

天野操・春ノ金茶久

天野操・春ノ金茶久

 人 物

 天野あまの みさお
 ・本 名 天野?
 ・生没年 ?~1981年以前?
 ・出身地 

 春ノはるの 金茶久きんちゃく
 ・本 名 天野?
 ・生没年 1920年代~ご健在?
 ・出身地 東京?

 来 歴

 戦前、親娘漫才で人気があったというコンビであるが、相変わらず経歴がほとんど知れない。

 ただ、漫才師としては古く1933年頃には、もう寄席や浅草の劇場などに出演している様子が窺える。ある意味では、親子漫才の先駆け的な存在、ともいえるだろう。

 「ベビー万歳」と名乗っていたらしく、『都新聞』(1932年2月19日号)の広告に、

▲三友館 河合澄子一黨及びきらく會合同一座廿日よりの新狂言は

レヴュー「カルメン」十景「ヴァラエティ」十種、所作事「義経千本桜」(主演若松、小富子)の外万歳(源一、一丸)ベビー万歳(操、金榮丸)安来節(妻子、節子)兵隊ナンセンス(榮蝶、松緑)オペラ万歳(葉子、芳子)

 とあるのが確認できる。

 出演記録以外では、ほとんど知る資料もないが、数少ない資料の一つに、大衆雑誌『キング』(1938年4月号)に掲載された「父娘漫才樂でなし」なる談話がある。以下はその引用。

いま金茶久と一緒にやつてゐるんですが、あれは私の娘でして、つまり父娘でやつてゐる譯です。金茶久が舞臺に初めて出たのは確か七歳のときだつたと思ひます。丁度家内が長い間、病氣で舞臺に出られないし、財政的にも非常に困つて、夫婦でどうしようかと思案してゐる時に、傍に居った娘が『お父ちゃん、あたしが代つて出ようか』と言ひました。續いて『舞台でのお金はどうなるの。ねえ、お父ちゃんが他の人と舞臺に出ると半分になるのでせう。あたいが出れば全部お父ちやんの所へ這入るのでせう』 さう言つた時には家内も頭を上げ切らぬ位に布團の中で泣いて居りました。さういふ關係から小屋主に相談して見ると、それは面白いだらうといふことで、娘と一緒に出ることになつたのです。
ところが都合の好いことに、私達は子守りを傭ふことが出来なかつたので、舞臺へ行くときでも始終金茶久を連れて行つて、夫婦でやつてゐるときには幕の外で子守をさせて居つたのです。それで子供心に私達のやるのを聞きかじりして居つたので、初めてやつたときには、それがませた言ひ方であるとかいふやうなこと全然知らないで、たゞ家内の言つて居つたまゝでやれば宜いといふのですが、それが客に非常に受けたのです。

 この話のオチは、金茶久が舞台の上でおもらしをしてしまうという、ちょっと尾籠な話である。

 1935年9月13日、帝都漫才組合が発足した折、操は漫才師の代表の一人として選出されている。「都新聞」(1935年9月14日号)の見出しに、

・代 表(漫才師)

都家 福丸 大道寺 春之助 千代田 松緑 大朝家 五二郎
立花家 六三郎 日本 チャップリン 中村 直之助
天野 操 玉子家 源一 朝日 日出丸 川路 紫郎

発足時会員 八十餘組、百六十数名

 この事から人気も権力も結構あった模様である。

 1930年代後半には消息を絶つ。帝都漫才協会にも参加していない。

 操は1981年の極楽寺の名簿に名前が出ているが、金茶久は出ていない。年齢的にも近年までご健在だった模様?

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