おりた氏・中山涙氏に答う

 今朝、何気なしにツイッターを見聞していた所、フォロワーからかのような会話が行われている、とメッセージが来た。

 中山氏に関しては少々所感のある所であるものの、かのように指名されてしまった以上は、中山氏のご好意を無碍にできないので、東京漫才研究者の端くれ、として知っている範囲で回答をする事にしよう。

 さて、しゃべくり漫才の元祖とは誰なのか――という質問は簡単そうで、実に難問である。「エンタツ・アチャコ」がその開発者である、と答えるのは余りにも簡単であるが、それは先人に対する愚弄であり、エンタツ・アチャコにしても荷が重すぎるであろう。

 当たり前の話であるが、芸というものは先人の積み重ねで生まれるものであり、今話題になっているビートたけしやとんねるずなども、そのやり口や見解は新しいものであるけれども、芸や行動は決して彼ら一代で生み出したものではないのである。

 たけしにも尊敬する先人があり、とんねるずにもその先人がいて、彼らは芸人になった。芸というものを捉える上で必要なのは、この先人の存在と蓄積なのである。そして、一つの流れを生み出した芸能を見ると、中興の祖以外にも、必ずと言っていいほど、他人も演じている。

 それらを踏まえると、エンタツ・アチャコなどは「しゃべくり漫才」の集大成的存在と見なすのが、適当なのかもしれない。それは、落語における三遊亭圓朝や歌舞伎における市川團十郎、演歌の美空ひばり、映画の黒澤明などにも言える――嫌みな言い方をすれば、彼ら以外にも芸人はおり、彼ら以上にうまい人、達者な人も沢山いた。にもかかわらず、そういう人々は金字塔になり得なかった。

 エンタツ・アチャコにしてもそうで、彼らの回りには、同じしゃべくり漫才である雁玉・十郎、五郎・雪江、更にはその先輩格というべき漫才師たちも沢山いた。だが、偉大なる「しゃべくり漫才」の栄冠は、エンタツ・アチャコに冠される事になった。その理由を述べると、本来の論を忘れそうになるので、

一、インテリゲンチャへの迎合・過激ネタの排除

二、レコード・ラジオ商法の成功

三、服装・会話の近代化

四、インテリ作家の登用と會社とパトロン

五、聴衆の高学歴化

 この五つが、エンタツ・アチャコを近代漫才の楔となり得る要素となった、と推測している。

 またまた口わるく言うが、中興の祖や人気者の下には幾万の屍や無名の芸人たちが――それこそ川口松太郎『鶴八鶴次郎』の世界観の如く――転がっているのだ。そういう事情も忘れてはならない。

 前置きが長くなってしまったが、東京漫才のしゃべくり漫才についてである。これはエンタツ・アチャコ以上に難問かも知れない。なぜなら、東京には、エンタツ・アチャコのごとき、金字塔にできる人物がいないからである。

 そもそも漫才は冷遇されていた。まず、ここから語らねばならない。「乞食萬歳」「まねし萬歳」などとよばれ、関西でもひどく卑しめられていた。明治末までは落語のつま程度の扱いであり、かの砂川捨丸のような大御所でも、大阪の舞台にはなかなか進出できず、神戸の劇場を拠点にせざるを得なかったほどである。

 しかし、大正に入ると、「吉本」というビックネームが関西の演芸界を掌握し、睨みを利かすようになった。吉本は漫才の未来を信じ、漫才に投資し、内紛続きの上方落語に見切りをつけた。そのお陰で上方落語が滅茶苦茶になった――などと、落語研究家は批判をするであろうが、上方漫才からすれば話は逆である。

 これまで冷遇されていた「漫才」に仕事と権力を与え、市民権を得させた恩人は「吉本」であった。だから、「吉本」が提示する路線にさえあっていれば、仕事は与えられたし、人気が出れば、それ相応の待遇が与えられた。その頃から一気に漫才師の数が増えたのも、この優遇と吉本の「漫才商戦」というべき、やり方のお陰である。

 もっと詳しく論じようと思えば、一冊でも二冊でも本が書けない事もないが、簡潔に申せば、関西の漫才文化は、こういうやり口が成功したがゆえに、徐々に浸透していった、ということになる。

 一方、東京はそのようなパトロン的興行社もなければ、落語界の結束があまりにも強すぎた。さらには永井荷風や泉鏡花などに代表されるような「江戸趣味」「懐古趣味」という、江戸っ子の誉れというべきような意地が、新興芸能の進出と発展を長らく阻害していた。

 もし、そのような新興芸能が出てきたとしても、東京の郊外である浅草にみんな押しとどめ、なるたけ山の手の寄席や劇場に進出させないように、あの手この手を使っていたのである。これは何も漫才に限らず、浪曲や八木節、安来節、喜劇なども辿ってきた道なのである。

 さらに、東京には太神楽一座や噺家の演じる「軽口」、「滑稽掛合」という芸が、古くからあった。その内容は洒落や芝居のパロディーなどを中心とした、大喜利風の喜劇であったが、これが幅を利かせていたために、ますます漫才が入り込む余地がなかったのは言うまでもない。

 落語家や講談師、寄席側からしても、よく判らない漫才を入れるよりも、丸一(太神楽の名跡、江戸時代から続いている)や湊家(同じく太神楽の名跡)というような信用のあるメンツを色物として採用した方が両方の顔が立ったわけである。身も蓋もないまま言ってしまうならば、「東京には漫才が根付くのにはあまりにも難しかった」。

 しかし、そんな中でも奮闘する人はちょいちょいと出てくるようになり、その先駆者的存在として、日本チャップリンと、東喜代駒があげられるだろうか。

 日本チャップリンは、東京の漫才で初めて洋服を着て舞台に上がった一人である。リンク先に写真があるが、だぶだぶの洋服を着ている様子が確認できる。ただ、この人の芸は歌や踊りなどの芸尽くしの漫才で、近代的なしゃべくり漫才とは少し色合いが違っていた。

 東喜代駒は、1923年に漫才界にデビューをし、昔馴染みの相方、東喜代志と共にハイクラス萬歳という芸を開拓。当初は喜代志が洋服、喜代駒が袴姿であったが、間もなく洋服姿になる。これがコンビで洋服を身に着けた先駆けであろう。

 コンビ解散後は、弟子の駒千代とコンビを組んで、セーラー服漫才や軍隊漫才などもやっている。この頃の録音が、レコードに20数枚残っているが、従来の歌・芸尽くし物に加え、しゃべりと効果音だけで掛け合いを演じる、「深夜のタクシー」「浅草不如帰」「済南戦争」などがある。

 ただ、これがエンタツ・アチャコ風のしゃべくりか、といわれると難しいところである。奇抜な面白さこそあるが、決して会話の妙味を楽しむようなものではない(もっとも喜代駒の最大の売りはこの奇抜さであり、震災ですさまじく変貌しつつある東京の姿と聴衆の心の機微をうまくついたわけであるが)。

 上の写真などは、ややコントの嫌いがあるが、楽器も使わず、男女ともに洋服を着ている所に凄まじい新しさがある。これで1930年頃なのだから、エンタツ・アチャコがコンビを組んだ頃には、もうこういう芸をやっていた、という証拠になる。

 さらには、エンタツ・アチャコが「しゃべくり漫才」に奮闘しているころ、集団漫才というべき様なものにも挑戦しており、こんな写真が残されている。

 

 関西よりもずっとずっと漫才が下にみられていた関東で、これだけ奮闘出来た人も珍しい。

 ただ、この喜代駒は一匹狼的な存在だった事に加え、漫才を模索するあまりエンタツ・アチャコ「早慶戦」のような決定打を放つことはなかった。余りにも時代を先取りしすぎたゆえの悲劇ともいえるだろう。ただ、この先見の明は今にも通じるほど、よく世間を観察している。

 東京漫才は秋田実のようなよき記録者がいなかったが故(逆に言えば、エンタツ・アチャコ伝説が残り得たのはこの秋田氏をはじめとするよき記録者たちがいたからだ)、どれだけ影響を与えたか計り知れないが、近代を目指そうとするやり方は、後述する千太・万吉やラッキー・セブンなどにも多かれ少なかれ影響を与えたはずである。

 特に喜代駒は、しゃべくり漫才やエンタツ・アチャコと深い関係を持っていた柳家金語楼と懇意の仲で「武井」、「山下」と本名で呼び合えるほどであった。これで、何にもないというのは余りにも無理がある。

喜代駒に次いで来るしゃべくり漫才といえば、リーガル千太・万吉香島ラッキー・御園セブン東ヤジロー・キタハチが、記録で残っている限りの漫才師という事になる。彼らの登場によって、東京漫才も「しゃべくり漫才」を得た、という事になろう。

 ただ、彼らはヒカキンチルドレンならぬ、エンタツ・アチャコチルドレンという傾向があるため、やはり東京漫才は上方漫才の呪縛・影響から抜け出せないものなのだと、感じさせる。

 中でも、リーガル千太・万吉は人気、コンビ歴共に長く持った。もともとは落語家の出身で、柳家金語楼の身内(千太は弟子)であったが、吉本興業に出入りし、大阪の芸能に詳しかった金語楼に薦められる形で漫才に転向。金語楼について回り、金語楼主宰の寄席や公演に出演する傍ら、リーガルレコードの専属となった。おりしもレコードが大衆文化のボルテージとされるようになった時期と重なったのがこのコンビの幸いで、舞台よりもレコードで知名度を上げたコンビと言える。この点は「早慶戦」で一気に名を成したエンタツ・アチャコに似ている所である。

 戦後もコンビを解散することなく、寄席を中心に活動し、1955年に「漫才研究会」を設立し、東京漫才師の団結を計った功績は大きい。戦争によって悲惨な最期を迎えたヤジキタコンビや戦後、コメディアンになってしまったラッキー・セブンと比べると、一途に東京漫才におけるしゃべくり漫才の形を探していた、といえる。

 晩年は寄席でも劇場でも通用する独自の漫才を練り上げ、一つの指針を打ち出した点を見ると、「東京しゃべくり漫才中興の祖」という栄光を冠してもおかしくはないだろう。

 ――と、ほかの二組を腐すような言い方をしてしまったが、ラッキー・セブンやヤジロー・キタハチが千太・万吉と比べて劣っていた、というわけではない。ただ、彼らは片や運、片やパトロンに恵まれなかった――この一点に尽きる。

 ラッキー・セブンは1933年頃、コンビ結成というのだから、エンタツ・アチャコが「早慶戦」で地位を確立する直前に生まれたコンビであった。エンタツ・アチャコの大阪風の鷹揚な話芸から脱し、きびきびと機関銃の如きテンポで漫才を繰り広げる話芸を率先して取り入れた点は、千太・万吉よりも大きい。ただ、このコンビは吉本→新興演芸(松竹系)→宝塚新芸座と、事務所を転々とし、離れたりくっついたりしている内に自然解消してしまった。また、コメディアンとして売れたのも、漫才への関心を失う原因となったしまった。もしよきパトロンが居たら、彼らも戦後復興に一枚噛めたであろう。

 ラッキー・セブンの特徴の一つに、ネタの奇想天外さ、というものがある。エンタツ・アチャコの作品のそれが今ではたわいないものになっているのに対し、ラッキー・セブンの「実況放送」などは、今でも洗いなおせば十分使える代物である。強盗や夫婦喧嘩を実況中継してみせる、という奇想天外なネタぶりは、思わず笑ってしまう。

 ヤジロー・キタハチは、先述した東喜代駒の門弟筋で、喜代駒の集団漫才などにも出演した経験があるというのだから、その経歴は古い。1934年頃にコンビを結成し、おそろいの洋服に、スマートな話芸を身上とする芸風で人気を博した。また、師匠譲りの向上心があり、戦前早くも漫才コメディーを行っていたりする。

 うまく行けば、第二のエンタツアチャコになり得た可能性もあったが、不幸にもこの二人は戦争によって徴兵され、ヤジローは戦病死、キタハチは新しい相方と組んだものの、漫才は一代限りとは上手い事を言ったもので、以降はパッとせず、戦後直後に脳溢血で倒れて、遂にこのコンビもダメになった。

 また、おりた氏の質問の中に出てきた「てんや・わんや」であるが、彼らの師匠筋である内海突破・並木一路は正に正統的なしゃべくり漫才であり、かつ東京のインテリの心をわしづかみにした漫才である。

 コンビ結成は1940年と遅いが、上方漫才の人気者たちを食ってしまうほどの人気を博した(もっとも、内海突破は上方漫才の出身である)。戦争漫才や時事漫才が横行する中で、たわいないギャグと洒落を身上とする、落語のような粋でこざっぱりとした笑いが、多くのインテリと聴衆の心をつかんだ。

 突破は洒落の名人であったのも、掛け合いの面白さを倍増させたことであろう。ただ、口が滑りすぎて官憲に「非常時」と叱られたことがあるという。1940年頃に起こったチェコスロヴァキアの紛争の折にも、

チエコさんが風呂に入っていたら、覗きがいたので「バキャロー!!!!」と怒鳴った、即ち「チェコ・フロ・バキャロー」。

 と、放言して、官憲に散々怒鳴られている。

 また、アザブラブ・伸も近代レビュー調の漫才を志し、色気のある掛け合いとスーツにドレスと、モダンな服装で、東京の学生に人気を博したことや浪花マンマル・シカクが大阪風の漫才と東京漫才をチャンポンにした派手な芸で人気を博したことも、記しておこう。

 最後に、エンタツ・アチャコの「早慶戦」以前から活躍していながらも、記録があまりにも少ないがゆえに、いつからしゃべくりになったのか判らない漫才師たちを数組あげて、この論を終えたいと思う。

 玉子家源一は、古くからの漫才で「ドンドン節」の源一とあだ名されたほどの漫才師であったが、その舞台がしゃべくりであったかは、すごく微妙な所である。この人は1920年代から東京に居るので、もし全編しゃべくり漫才だったとするならば、記録は更新される。ただ、『演芸画報』(昭和十三年九月号)に、

一丸は何も藝のない藝人、源一は昔風の古臭い漫才、得意の音曲も「金魚賣りに出て賣名を忘れて、酒に酔つた小さい魚は入りませんかいな。アリヤ低能々々」
といふンだから、餘り好い頭脳ぢやないな。

 などと書かれている所を見ると、ますます微妙な所である。

 千代田松緑も古い芸人で、バカデカいトンボ眼鏡とホワイトスーツ、独特の時事ネタと声色で売った人であるが、コンビ結成年が定かではないので、確証たる事が言えないのが現実である。ただ、1930年前半より兵隊漫才をやっていたのは確かで、その頃から換算すると千太・万吉よりも前にしゃべくり漫才をやっていた可能性がある。

 大道寺春之助・天津城逸朗、この二人はエンタツ・アチャコやダイマル・ラケットも演じて見せた拳闘漫才を1933年頃には演じている猛者であるが、それ以前の記録の殆どが欠落しており、舞台の様子を筆記したものも少ないので、甚だ微妙な所である。ただ、古い事には古く、拳闘漫才をやった点は高く評価すべきである。

 宝家大坊・小坊、この二人は少年漫才出身で、1930年にはもう漫才をやっていたというが、こちらも記録がなさすぎるため、わからない。ただ、昭和一桁に「運と災難」なるレコードをしゃべくりで入れているのを聞くと、少年漫才時代からしゃべくりやっていたのでは、と推測したりもする。

 橘家デブ子・花輔小桜金之助・桃の家セメンダルやっていたという確証が得られないので、微妙な筋である。ただ金之助はスーツを着た漫才師としては古いと思う。

 以上、喜利彦山人答ふ。

 

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