大空みつる・ひろし

大空みつる・ひろし

大空みつる・ひろし(左)

人 物

 人 物

 大空おおぞら みつる
 ・本 名 田口 文正
 ・生没年 1941年4月1日~2018年2月
 ・出身地 岩手県 盛岡市

 大空おおぞら ひろし
 ・本 名 遠藤 洋
 ・生没年 1945年1月5日~没
 ・出身地 東京 墨田区

 来 歴

 大空みつる・ひろしは戦後~平成初頭まで活躍した漫才師。大空ヒット門下の俊英として売り出し、新山ノリロー・トリロー、東京太・京二と共に「東京漫才の御三家」として名声をほしいままにしたが、自堕落な性格と病弱が原因で最終的にコンビを解散してしまった。

みつるの前歴

 みつるは盛岡市に生まれ、同地の盛岡農業高等学校園芸科を卒業。

 同校卒業後、上京して芸能界に入り、1958年、コメディアンとして活躍していた世志凡太に入門。同年6月新宿文化演芸場で初舞台を踏む。

 世志凡太氏に直接聞いたところ、「田口文正くんですね、彼のお姉さんと僕が友達でね、そのお姉さんから弟がこっちの世界に入りたいから頼みます、って斡旋を頼まれて僕の門下に入る事になりました。弟子といっても芸を教えるわけでもなし、カバン持ちとかさせていましたが、いつの間にか漫才になっていましたね」。

 ただ、世志氏が破門したわけでも、みつるが飛び出して仲が嫌悪になったわけでもなく、成り行きで漫才になったそうで、別々の道を歩むようになった後も一定の交遊や敬意はあったそうである。

 また、世志氏のカバン持ち時代に「コメディ東京」の研修生としても活動していた。

 1959年、漫才に転向し、東京ネオン・サインというコンビ名で活動。

 翌1960年に大空ヒットに弟子入りし、大空みつると名乗る。

 入門当初は兄弟子の大空みのるとコンビ結成し、「大空みつる・みのる」。間もなく解散して、大空かんだと「大空はるか・かなた」として活動していたが、長続きはしなかった。かんだ氏は「あきおさんが辞めちゃったんで、その後釜で迎えたんだけど、すぐに辞めました」との由。

 1962年3月、大空ヒットのカバン持ちをしていた大空ひろしと出逢い、コンビ結成。「大空みつる・ひろし」となる。

ひろしの前歴

 ひろしは墨田区の出身。幼いころから漫才が好きで、高校在学中の1961年に大空ヒットに入門。カバン持ちをしながら、漫才の修行に励んでいた。

 なお、漫才の方に力を入れ過ぎて高校は中退してしまった。

 リーガル天才が1974年の漫才大会のパンフレットの中で、その頃の思い出を記載しているので引用。

つめえりの学生服で漫才の稽古にやって来る若者がいた。カバンを廊下のすみに置いて、盛んに大声を出してやっている。ニキビ一杯の童顔の少年だ。「この坊や果して永続きするのかいなァ」とヒット師も私も気になった。なにしろ十六才で漫才道に入って来たのである。その時まだ高校一年生、この少年が大空ひろし君だ。

 1962年3月に兄弟子のみつるとコンビを組み、念願の漫才コンビを結成。本名の遠藤洋をそのまま芸名に転用して「大空ひろし」と名乗る。

みつる・ひろしの売り出し

 やんちゃ坊主のようなみつる、憂いを漂わせる風貌をしたひろし――と風貌こそセールスポイントは高くなかったが、話術はピカ一で早くから注目された。

 青年らしいフレッシュな話芸とスピーディな漫才を得意とし、たちまち人気者となった。こまどり姉妹に可愛がられて、彼女の一座に随行し、司会漫才としても腕を磨いた。

 間もなく一心プロダクションと契約を結び、専属となっている。

 遠藤佳三『東京漫才うらばな史』に、みつる・ひろしの交流が記載されているので引用する。また、氏当人からも色々と思い出を伺ったのはいい思い出である。

 みつる・ひろしの漫才は一口にいうとアクのない漫才だった。ボケ的な風貌もフラ(生得のおかしみ)もなく、サラッとした口調でギャグを繰り出して笑わせる彼らの漫才に、ファンも多かった。フラに頼らず言葉のギャグの連発に重きをおく手法は、多くの後輩たちの指針にもなった。みつる・ひろし(殊にみつる)は仲間作りが上手で、面倒見がよく、グループ21のほかに、Wエース、花園のいる・こいる(現昭和のいる・こいる)、大空はるか・かなた、Wモアモア、春風こう太・ふく太などの後輩をまとめて、「あつまろう会」というグループを作り、勉強会を開いていた。
 みつる・ひろしについて、ひとつ問題点をあげれば、漫才の中の一人称・二人称がキミ・ボクではなく、オレ・オマエであることだった。それは今でこそ当たり前になっているが、当時は「品がよくない」、「お客の前で無礼じゃないか」とされたものである。私もオレ・オマエに抵抗を感じたほうで、彼らにもキミ・ボクの台本を書いていたが、それが彼らに渡ると、ネタおろし当座はともかく、いつの間にかオレ・オマエにかわってしまうのだった。
 私が注意すると、彼らにも言いぶんがあって、とくにひろしは、私と同じ本所育ちであるところから、 「本所っ子にキミ・ボクと言えなんて無理だよ。漫才は使いつけてる言葉が一番だよ。センセも本所っ子なら、オレ・オマエで書いたほうがいいよ。そのほうが自然だもん」 と、冗談半分こちらに説教することもあった。そうかと思えば、突然キミ・ボクに戻すことがあり、「どうしたの」と聞くと、「こんどNHKに出るので」などと、けっこう使い分けをしていたのである。

 1965年、第13回NHK漫才コンクールよりコンクールに出場し、『花嫁学校』を披露。

 1966年、第14回NHK漫才コンクールに出場し、『つきあいにくい』を披露。

 1967年、第15回NHK漫才コンクールでは、『マイフェア紳士』で次点。

 1968年、第16回NHK漫才コンクール、『そこに山があるから』は、残念ながら入賞を逃す。

 同年、また、遠藤佳三などと結託して若手漫才グループ、「グループ21」の結成に尽力し、交流と切磋琢磨を深めた。

 メンバーは青空星夫・月夫、あした順子・ひろし、東京二・京太、東京大坊・小坊、青空はるお・あきお松鶴家千とせ・宮田羊かん、羽沢かんじ・志摩かほる、笹一平・八平。後年、大瀬しのぶ・こいじ、榎本晴夫・志賀晶が加入している。

 1969年、第17回では『明治は遠くなりにけり』で第3位。

 1970年、第18回コンクールで『マル秘情報時代』を演じ、悲願の優勝、6回目の正直であった。

 この優勝をキッカケに東京漫才の売れっ子となり、同期世代の新山ノリロー・トリロー、東京二・京太と共に「東京漫才の御三家」として人気を集めた。この三組を中心とした漫才大会や企画などが行われた。

 優勝前後から演芸ブームに乗り、数多くの番組や公演に出演。掛持ちで仕事をこなすなど、大空一門のスターとして名声をほしいままにした。

 1974年に青空千夜・一夜新山ノリロー・トリロー、東京二・京太に次いで、四組目の漫才協団真打として推薦され、同年9月27日、朝日生命ホールで真打披露を開催。

 ゲストには石井均、石川さゆり、コント55号、こまどり姉妹、三遊亭円歌、三波伸介などが出席、一龍斎貞鳳、北村銀太郎、興津要、はかま満緒がお祝いの言葉を送った。

 公演最中に行われた真打披露口上には師匠の大空ヒットをはじめ、コロムビアトップリーガル天才、同秀才が並び、門出を祝福された。

この時二人に寄せられた興津要のお祝いの言葉が心温まるものなので引用する。

おめでとう! みつる・ひろし君 
早稲田大学教授 興津要

みつる・ひろしのコンビも、新人だ、新人だと思っているうちに、いつの間にか十三年あまり経ってしまったそうな。このように歳月の経過を感じさせないということは、このコンビが、いつまでもフレッシュなムードを失っていないということに起因している。 このコンビは、楽器も持たず、アクロバットもみせず、話術だけを基調とした正統派だ。しかも、一歩一歩着実に基礎を積みかさねてきた堅実な芸風のコンビなのだから、派手さはないが、どこか、いぶし銀の味があるところがたのもしい。真打昇進を機会に、長いあいだ養ってきた実力に明るい花を咲かせてほしい。

 以来、東京漫才の幹部候補として順調な滑り出しを見せた。

 1975年の「漫才協団」の選挙では、「青年部副部長」として役員入り。ノリロー・トリロー、京二・京太も幹部入りしており、トップ会長は「この三組と千夜・一夜がいずれの大幹部」と腹で思っていたようである。

 1984年のノリロー・トリロー、1985年の京二・京太の解散を受けながらも、コンビ活動の姿勢を崩すことなく、最後の砦として期待された。

 一方、1980年代中盤に入るとひろしの体調不良やみつるの自堕落な性格が仇となる出来事が次々とおき、以前のような活躍ぶりが見られなくなってしまった。

 遠藤佳三氏や大空かんだ氏などによると、よく言えば芸人気質で洒落で許される風格の持ち主、悪く言うと冗談がキツく、語弊を招く事もあった。好き嫌いが別れる性格をしており、そこが愛嬌として人気があった反面、憎まれることも多かった。

みつる・ひろしのその後

 以来、開店休業状態を続けていたが、大空ヒットの死を巡って悶着をおこし、コンビ活動が絶望的なものとなる。

 大空かんだ氏によると、「当時、ヒット先生の店が一階、みつるの店が二階にあったのですが、これで結構もめたらしく、先生もあいつはダメだ、と零していましたよ。先生が死んだ時に、葬儀に来るように頼んだにも関わらず、『仕事があるから無理』と言ってきたのに留まらず、その後、ひろしから先生の葬儀の日に仕事はなかった――と聞いて、疎遠になりました。他の漫才師たちにも色々不義理があったそうですよ」。

 1993年8月の国立演芸場出演と、秋の漫才大会の連名に名前を載せたのを最後にコンビ解散し、漫才界からも離れる事となった。

 以降、放浪生活を送る所となり、熱海の神社仏閣に小物作りの露店を出したり、同地のホテルの厨房係兼舞台進行役などを転々とし、行く宛のない日々を送っていたという。

 その中で再婚をしたとか何とか、一応の家庭の幸せは見つけたらしく、最期は一人の市民として亡くなったらしい。生前交友のあった春風こうた氏によると、「みつるさんは、2018年の2月に亡くなったと、元奥さんから連絡が来ましたよ」。

 こうた氏によると「上野周辺に住んでいる」との由であったが、そのこうた氏もなくなり、今となっては――である。

 一方のひろしは、温厚な性格で優しい人間だったそうだが、病弱な所があり、晩年はこの体質がネックとなった。

 平成初頭には既に病弱となっており、協団の大会や公演会にも姿を現さなくなってしまった。

 現状を打破できぬまま、1993年8月の国立演芸場出演と、秋の漫才大会の連名に名前を載せたのを最後にコンビ解散。その頃から病の床に伏せるようになったという。後年、夭折した。

 2012年頃、大空かんだ氏に訪ねた時にはもう没しているとの事であった。

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