漫才師逆引き事典

東京漫才を彩った人々

青柳ミチロー・柳ナナ

青柳ミチロー・柳ナナは戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。戦前はセーラー漫才なる水兵漫才を、戦後はしゃべくり漫才を展開して人気を集めたが、その活躍の割には謎が多く残る不思議なコンビである。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

林家染団治

林家染團治は東京漫才創成期から戦後まで40年近くにわたって活躍を続けた。東喜代駒や朝日日出丸・日出夫らと鎬を削った。多くの門弟を育成し、帝都漫才組合の会長や漫才研究会の副会長を歴任した漫才界の功労者であった。ゴリラの真似の名人と言えばこの人の事、ゴリラの染團治と謳われた程。
東京漫才を彩った人々

十返舎亀造・菊次

十返舎亀造・菊次は戦後活躍した漫才師。男女コンビであるが夫婦ではない。亀造は鏡味小仙の門下の曲芸師、菊次は牧タンゴという人とコンビを組んでいた古い漫才師。戦後コンビを結成し、ラジオの人気者として君臨。その粋でさっぱりとした話術は立川談志や色川武大の熱烈な支持を受けた。今日も彼らの文献でその姿や芸を偲ぶことができる。
東京漫才を彩った人々

リーガル千太・万吉

リーガル千太・万吉は戦前戦後活躍した漫才師。しゃべくり漫才の頂点を極め、東京漫才におけるしゃべくり漫才の基礎を作った。万吉は漫才研究会初代会長としても活躍した。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

桂喜代楽・愛子

桂喜代楽・愛子は戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。戦前は東京、戦後は名古屋を中心に精力的な活躍をつづけた。喜代楽は古い漫才や芸をよく知っており、晩年はその貴重な証言者、演者として研究者や芸人たちから慕われることとなった。
東京漫才とは何か

大朝家五二郎・〆駒

大朝家五二郎・〆駒は、時事漫才を看板に掲げて活躍した漫才師であり、戦前の東京漫才における顔役の一人。元々は曾我廼家喜劇系の人物で台本作家をやっていたが、後年漫才に転向。創作の才を生かして時事漫才を完成させた。東京漫才における時事漫才の先駆けといってもいいだろう。戦後は芸能社の社長としても活躍した。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

玉子家利丸・松鶴家日の一

玉子家利丸・松鶴家日の一は、東京漫才創成期に活躍した漫才師。利丸は玉子家円辰の末弟子、松鶴家日の一は日の丸の弟子。コンビとしての上手さや漫才師の活動というよりも、多くの談話と芸を残したということから、その名を歴史に刻む事となったという異色のコンビである。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

桂木東声・春風小柳

桂木東声・春風小柳 戦前戦後に活躍した漫才師。東声は弁士・噺家、講釈師を経て漫才師になり、小柳は東京日本橋の芸者出身。達者な芸と話術で、様々な漫才師に大きな影響を与え、吉本と新興演芸部の対立の火種ともなった人気者であった。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

玉子家源一

玉子家源一は東京漫才創成期に活躍した漫才師。ドンドン節を十八番にし、ドンドン節の源一で売れに売れた。戦後は、漫才師を引退し、興行師に転向。90歳の天寿を保った。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

砂川捨勝・祇園千代子

砂川捨勝・祇園千代子は戦前戦後に活躍した漫才師。捨勝は名前の通り砂川捨丸の弟子。祗園千代子は名前の通り、京都の出身。砂川捨丸譲りの音曲主体の芸尽くし萬歳を得意としたそうで、「関東砂川会」の支部長でもあった。戦後一時期歌姫として活躍した西村つた江は二人の娘である。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

吉原家〆坊・〆吉

吉原家〆坊・〆吉は戦前戦後に活躍した漫才師。元は新内流しだったそうであるが、詳細に謎が多い。漫才師としては古く、昭和一桁台から東京の舞台に出るようになる。戦後まで健在だったというが――
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

小桜金之助・桃の家セメンダル

小桜金之助・桃の家セメンダルは東京漫才創成期に活躍した漫才師。夫婦であった。セメンダルはセメント樽の略称。凸凹コンビで人気があったという。金之助が独特の所作で雪駄や畳直しの職人の真似をする不思議な物真似芸がトリネタであったと聞く。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

太刀村一雄・筆勇

太刀村一雄・筆勇は戦前戦後に活躍した漫才師のひとり。一雄は玉子家円辰とコンビを組んでいた事もある。大柄の筆勇が土俵入りの真似事や一雄に相撲四十八手の型をかけてみせる相撲漫才という独特の芸を得意とした。地下鉄漫才で一世を風靡した春日照代の両親としても有名である。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

日本チャップリン・梅廼家ウグイス

日本チャップリン・梅廼家ウグイスは関東大震災以前~戦前の東京漫才創成期に活躍した夫婦漫才。早くから寄席へ進出し、東京漫才の啓蒙に一役を買った。ウグイスの美声とチャップリンのサルの物まねが売り物であったという。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

宝家大坊・小坊

宝家大坊・小坊は戦前活躍した漫才師。中国系の人だったという。戦前、少年漫才として売り出し、浅草を中心に活躍したが、戦後になると消息が途絶える。六尺棒を使いこなす漫才だったというが――真木淳・斎藤れをの「ダイナマイトコンビ」が東京大坊・小坊を組んだ際は、三代目だったという。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

荒川末丸・玉子家艶子

荒川末丸・玉子家艶子は、東京漫才の創成期に活躍した漫才師。末丸は玉子家圓辰の直弟子だというが謎が多い。ただし、演芸としての「東京萬歳」の名称を使った最初の芸人と目されている。震災前後は大和家八千代一座で活躍したというが、末丸は夭折した。艶子は一時期大和家かほると組んでいた。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

橘家デブ子・花輔

橘家デブ子・花輔は戦前に活躍した漫才師。夫婦だったそうで、浅草を中心に活躍した。花輔は、噺家の出身。デブ子は太った見た目を芸名にしたというが謎が多く残る。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

東亭花橘・玉子家光子

東亭花橘・玉子家光子は大正から戦後まで活躍した漫才師。夫婦漫才であったという。漫才というよりも、高座の上で餅を搗き、曲芸や餅のこねる様を見せる珍芸を売り物にした異色のコンビであったという。芸歴も長く大正時代から戦後にかけて、40年近く活動した。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

東喜代駒

東喜代駒とは、東京漫才の元祖と言っても過言ではない漫才師である。上方漫才の影響を受けながらも、その流れに従う事なく、独学で奮闘し、はじめて東京人による東京漫才を完成させた功労者というべき存在であろう。

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