漫才師 アの部

東京漫才を彩った人々

東若丸・君子

「東若丸・君子 – 東京漫才のすべて The tokyo manzai collections」東若丸・君子は戦前活躍した夫婦漫才師。人気漫才師、都上英二・東喜美江の東喜美江の両親として知られている。漫才師時代は剣舞を演じる漫才を得意としていたという。
東京漫才を彩った人々

Wコント(東けんじ・玉川良一)

Wコントは戦後活躍した漫才師。ボケ役の東けんじは、宮城けんじとコンビを組んで、「Wけんじ」で一世を風靡。玉川良一は浪曲の玉川勝太郎門下の出身で、後年は、コメディアン、浪曲漫談家として、テレビに映画にラジオに独自の才能を発揮した。
東京漫才を彩った人々

東まゆみ・大和わかば

東まゆみ・大和わかばは、戦後、『おしゃべりシスターズ』という名称で売った女性コンビ。東まゆみは「東」の亭号通り、東喜代駒の門弟。わかばは、大御所「大和家かほる」の実の娘。恵まれた才能をフルに生かし、しゃべくり一本の女流漫才として頭角を現したが、志半ばで解散した。
東京漫才を彩った人々

青空はるお・あきお

青空はるお・あきおは戦後活躍した漫才師。コロムビアトップ・ライト門下の売れっ子で、司会漫才を得意とした。巨漢のはるおと痩せぎすのあきおの対比がよく受けた他、はるおのイカサマ中国語で受けた。
東京漫才を彩った人々

青空星夫・月夫

青空星夫・月夫は、戦後活躍した漫才師。うれし・たのしと並ぶ学生漫才の先駆けであり、青空一門の中堅格として、司会者としても活躍した。月夫は二代存在する。初代月夫は「田畑広」名義でステンドグラスづくりの名人として、山梨県下で活躍している。
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相原義雄・早川みち子

相原義雄・早川みち子は戦前戦後活躍した夫婦漫才師。義雄がアコーディオンを持つ音曲漫才であったという。昭和末、落語協会系の寄席で活躍した女流漫才師・相原ひと美は実の娘。経歴はほとんど知れない漫才師の一組である。
東京漫才を彩った人々

青空千夜・一夜

青空千夜・一夜は、戦後活躍した漫才師。コワモテで大柄な一夜、小柄でカッパのような千夜の凸凹コンビで人気を集め、ラジオ・テレビ時代の寵児となった。またコロムビアトップ・ライト率いる青空一門の大番頭としても活躍。多くの後輩や弟子の面倒を見た。
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東和子・西〆子

東和子・西〆子は戦後活躍した女流漫才師。東和子は東喜美江のはとこ、西〆子は松鶴家千代若・千代菊の長女である。和子は都上英二の後妻となり、二代目東喜美江を襲名した。ギターと三味線の音曲漫才で人気を博したが、二人とも夭折した。 
東京漫才を彩った人々

朝日日の丸・東京子

戦前から戦後にかけて活躍した夫婦漫才。日の丸のバイオリンに合わせ、ショーアップされた漫才を得意としていたという。日の丸は、朝日日出夫・日出丸の弟子だったそうである。
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都上英二・東喜美江

都上英二・東喜美江は戦前・戦後に活躍した夫婦漫才。東喜代駒の一門として長らく東京漫才をリード。英二のギターとハーモニカの曲弾、喜美江の天才的な芸で一世を風靡した。英二は、漫才研究会二代目会長としても活躍、芸術祭参加、漫才大会の開催など多くの功績を残した。
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東家市丸・砂川捨奴

東家市丸・砂川捨奴は戦前活躍した漫才師。浪曲漫才を得意とし、市丸の浪曲節真似が当たり芸であったという。夫婦のようであるが、夫婦ではない。両人ともに元々は関西系の漫才師だったという。砂川捨奴は、上方漫才の大御所、砂川捨丸の弟子であった。戦前の吉本の看板でもあった。
東京漫才を彩った人々

東イチロー・ハチロー

「東イチロー・ハチロー 」は戦後活躍した漫才師。東ヤジロー・キタハチの弟子だという。戦後活躍した。なお、「東ハチロー」は、東貴博の父親で、一世を風靡したコメディアン「東八郎」と同姓同名であるが、特に関係はない。
東京漫才を彩った人々

笑福亭茶福呂・秋野華枝

笑福亭茶福呂・秋野華枝は東京漫才の創成期に活躍した一組。夫婦漫才であったという。茶福呂の前歴は殆ど謎に包まれている。が、笑福亭と名乗っている所から上方落語の出身だった模様。兎に角息の長い漫才師で、当時としては驚異の昭和初期から戦後まで30年近くにわたって活動を続けた。
東京漫才を彩った人々

荒川芳夫・千枝子

荒川芳夫・千枝子は戦前活躍した夫婦漫才。関西の荒川芳丸の門下だったという。浪曲漫才を得意としたほか、古今亭志ん生・三遊亭圓生らと共に終戦直前の満州にわたり、逃避行をつづけたメンバーの一組でもあった。
東京漫才を彩った人々

吾妻家ぼら・国春

吾妻家ぼら・国春は戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。東京の舞台でも活躍したが、本拠地は神戸の劇場で長らくカルト的な人気がを集めたという。「鯔」という珍しい名字の持ち主でもあった。
東京漫才を彩った人々

林家染松・明石須磨子

林家染松・明石須磨子は戦前活躍した漫才師。明石須磨子は、浅草オペラで鳴らした女優であるが、別人の可能性もある。よくわからないコンビである。
東京漫才を彩った人々

浅田家章吾・雪恵

浅田家章吾・雪恵は戦後活躍した漫才師。二人は夫婦ではなかった。舞踊を主とした音曲漫才を展開し、落語芸術協会系の寄席で長らく活躍した。雪恵は春風亭柳橋の後妻さんとしても有名である。
東京漫才を彩った人々

天野操・春ノ金茶久

天野操・春ノ金茶久は戦前活躍した漫才師。実の親子であり、父娘漫才として売れに売れた。親子漫才をやったさきがけの一組といえるかもしれない。人気の割には情報が少なく、よくわからない漫才師である。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

大道寺春之助・天津城逸朗

大道寺春之助・天津城逸朗は戦前活躍した漫才師。野球やボクシングを取り入れたスポーツ漫才を創始し、東京漫才の花形として君臨した。春之助は戦後大江茂とコンビを組み、「凸凹ボップ・ホープ」と名乗った。
東京漫才を彩った人々

アザブラブ・伸

アザブラブ・伸は戦前に活躍した夫婦漫才師。「ラブシーン」を芸名にした通り、都会的な漫才を得意とした。ラブは女流漫才で初めてイブニングドレスを着た漫才師の先駆けという説がある。
東京漫才を彩った人々

天野竜二・東お駒

天野竜二・東お駒は戦前に活躍した夫婦漫才師。竜二のボヤキとお駒の三味線を用いた古風な音曲漫才であったという。芸歴だけで言えば、千代若・千代菊に並ぶ60年近いコンビ活動を有した漫才師だった。
東京漫才を彩った人々

東ヤジロー・キタハチ

東ヤジロー・キタハチは戦前戦後に活躍した漫才師。しゃべくり漫才で人気を博し、リーガル千太・万吉、内海突破・並木一路などと共に東京漫才のしゃべくり漫才やミュージカル漫才などに貢献をしたが、戦争のためにコンビ仲が引き裂かれ、共に悲惨な最期を迎えた。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

朝日日出丸・日出夫

朝日日出丸・日出夫は戦前から戦後に活躍した漫才師。朝日家日出丸・日出夫ともいう。東京漫才の創成期から寄席や劇場で活躍。先見の明があり、洋楽やジャズを入れた音曲漫才を展開した他、レビューを元にした漫才ショーを開拓し、爆発的な人気を集めた。漫才でも最初期に車を所有した人物でもある。
東京漫才を彩った人々

荒川芳勝・八千代

荒川芳勝・八千代は戦前戦後に活躍した漫才師。芳勝は大阪系の漫才師で、名門荒川一門の出身。四つ竹を打ち鳴らし、珍舞踊を踊る珍芸風の漫才で人気を博した。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

荒川清丸・玉奴

荒川清丸・玉奴は戦前に活躍した夫婦漫才師。清丸は玉子家圓辰の門下で、長らく上方にいた。晩年小沢昭一たちに注目され、聞き書きがとられたが、事実誤認や誇大発言なども多く、どこまで本当なのかいまいち信じられない漫才師である。
東京漫才を彩った人々

青柳ミチロー・柳ナナ

青柳ミチロー・柳ナナは戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。戦前はセーラー漫才なる水兵漫才を、戦後はしゃべくり漫才を展開して人気を集めたが、その活躍の割には謎が多く残る不思議なコンビである。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

荒川末丸・玉子家艶子

荒川末丸・玉子家艶子は、東京漫才の創成期に活躍した漫才師。末丸は玉子家圓辰の直弟子だというが謎が多い。ただし、演芸としての「東京萬歳」の名称を使った最初の芸人と目されている。震災前後は大和家八千代一座で活躍したというが、末丸は夭折した。艶子は一時期大和家かほると組んでいた。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

東亭花橘・玉子家光子

東亭花橘・玉子家光子は大正から戦後まで活躍した漫才師。夫婦漫才であったという。漫才というよりも、高座の上で餅を搗き、曲芸や餅のこねる様を見せる珍芸を売り物にした異色のコンビであったという。芸歴も長く大正時代から戦後にかけて、40年近く活動した。
息吹 ~大正から昭和ひと桁~

東喜代駒

東喜代駒とは、東京漫才の元祖と言っても過言ではない漫才師である。上方漫才の影響を受けながらも、その流れに従う事なく、独学で奮闘し、はじめて東京人による東京漫才を完成させた功労者というべき存在であろう。

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