東京漫才を彩った人々

関東猫八・照葉

関東猫八・照葉は戦前活躍した夫婦漫才師。「猫八」と名乗ったように、動物の物まねを得意としたそうで、寄席などに出演した。三遊亭圓生親子と仲が良かったそうで、六代目の随筆に名前が出てくる。
東京漫才を彩った人々

中禅寺司郎・滝喜世美

中禅寺司郎・滝喜世美とは戦前戦後に活躍した夫婦漫才である。司郎は漫談家の大辻司郎を私淑しており、司郎そっくりの風貌を売りにした。戦前からジャズ漫才という独特の物真似芸が得意としたそうで、戦後も人気があった。戦後は落語芸術協会に所属し、寄席の色物としても活躍をした。
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大空はるか・かなた(ケーシー高峰)

大空はるか・かなたは一九五〇年代に活躍した漫才師である。大空ヒットの門弟で、学生風の漫才師として、スマートな芸風で人気を集めたものの、数年で解散。はるかはケーシー高峰、かなたは横山あきおと名前を変えて活躍した。 
東京漫才を彩った人々

木田鶴夫・亀夫

木田鶴夫・亀夫は戦後活躍した漫才師。鶴亀コンビとも称した。大柄でおっとりとした鶴夫に、小柄でおしゃべりな亀夫の対比で人気を集め、東京漫才を牽制した。漫才コンクールで優勝するなど実力はあったものの、不遇であった。
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杉ひろし・まり

杉ひろし・まりは戦後活躍した夫婦漫才師。長らく落語芸術協会の色物として君臨。「スイングコント」と称する音曲漫才で人気を集めた。また、幕内ではおしどり夫婦として有名で、50年近い芸歴を共に歩み合った。
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冨士五郎・十郎

冨士五郎・十郎は戦前活躍した漫才師。芸名の由来は、富士の仇討ちで有名であった曾我五郎・十郎の洒落であろう。喜代駒の関係者だったらしく、兵隊漫才やコントを得意としたという。
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大津一万・万龍

大津一万・万龍は戦前に活躍した夫婦漫才師。万龍は後年大朝家美代子とコンビを組み、一万は村田英雄事務所の番頭として活躍した。
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大空ヒット・三空ますみ

大空ヒット・三空ますみは、昭和を代表する漫才師の一組。夫婦漫才であった。ヒットは東喜代駒の一門の古株的な存在であった。時事漫才を得意とし、「大空」の屋号を一代で漫才の名門へと育て上げ、「大空」一門を形成。また、漫才研究会の名理事として東京漫才の発展に寄与した。
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大朝家美代子・三枡静代と日の本光子

大朝家美代子・三枡静代と日の本光子は戦後活躍した漫才師。三人とも50年以上の芸歴を誇り、晩年は漫才界の長老として、矍鑠と活躍を続けていた。大朝家美代子は台所漫才を得意とし、これを売り物とした。日の本光子はダーク大和の晩年の妻でもあった。
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港家柳歌・おふね

 港家柳歌・おふねは戦前~戦後に活躍した夫婦の漫才師である。団子の曲食いという珍芸と浪花節を得意としたという。柳歌の死後、おふねは子供とコンビを組み、親子漫才に転向した。
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大津小万・大津小百合

大津小万・大津小百合とは戦後に活躍した女流漫才である。共に大津お萬の門下生同士で結成された模様である。三味線漫才を主体とした女流コンビであったが、判らないことが多い。小萬はお萬の惣領弟子のような存在であった。
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高原妙子・松林桂右

高原妙子・松林桂右とは戦後に活躍した夫婦漫才。ギターとアコーディオンというオーソドックスな音曲漫才を得意とした。元々は長野県下の楽団の出身だったらしいが、後年東京漫才になった。太神楽曲芸協会に所属し、大道芸大会や寄席で出演したサイクル松林は実の息子。晩年、息子に先立たれた。
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隆の家栄龍・万龍

隆の家栄龍・万龍は戦後に活躍した母娘漫才である。万龍が母、栄龍が娘である。ウーマンリブ的なネタと万龍の豪快な笑い声で、ラジオの人気者となった。隆の家万龍は1920年代からの漫才師で50年以上の芸歴を誇った。栄龍は養女で母の弟子。栄龍の養子が松旭斎美智氏である。
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小宮凡人・凡児

小宮凡人・凡児は戦前戦後に活躍した漫才師。小宮凡人は、喜劇役者としても有名で、幼いころの色川武大と不思議な交友関係を持っていた。漫才師としての活動期間は短かったようである。
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春の家金波・銀波

春の家金波・銀波は、曲芸漫才を得意としていた漫才師であり、浅草に長らく住んでいたという。今でこそ曲芸漫才は殆ど絶えたが、戦前から戦後の一時期まで大津検花奴・菊川時之助、南晴夫・晴美など曲芸を主とする漫才師が居た。見栄えするので人気もあったという。
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牧タンゴ・山路はるみ

牧タンゴ・山路はるみは戦前に活躍した夫婦漫才師。浅草を中心に活躍したが、タンゴが夭折した。山路はるみは後年、「亀造・菊次」として売れに売れた十返舎菊次である。PCLレコードに「はやり唄・女給」のレコードを吹き込んでいる。タンゴの素性がよく判らない不思議なコンビでは、ある。
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香川染団子・染千代

香川染団子・染千代とは戦後に活躍した女流漫才である。女性同士のコンビとして30年近く続いた稀有な例である。三味線漫才を得意とし、ヌーボーな味が買われたという。
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大江笙子・大江しげる

大江笙子・大江しげるは戦前に活躍した夫婦漫才師。戦後、大江笙子は妹の京美智子やリーガル千太とコンビを組んで活躍。大江茂はバイオリン漫談に転向し、古き良き書生節の演奏者として、昭和末期まで活躍をつづけた。
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唄の家一八・歌丸

唄の家一八・歌丸は戦前戦後に活躍した漫才師。夫婦であった。歌丸は茶目丸ともいうが、後年改名した。一八が三味線を受け持ち、歌丸がボリュームのある声とネタで、一八をてんやわんやとさせる音曲漫才で人気を集めた。
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富岡 豊・花村 いせじ

富岡 豊・花村 いせじは戦後活躍した夫婦漫才師。両人ともに歌手の出身で、美声が売りであったという。豊のアコーディオンに合わせ、いせ路が歌を歌ったり、洒落を言うオーソドックスな音曲漫才だったようである。
東京漫才を彩った人々

林家染松・明石須磨子

林家染松・明石須磨子は戦前活躍した漫才師。明石須磨子は、浅草オペラで鳴らした女優であるが、別人の可能性もある。よくわからないコンビである。
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桂三五郎・河内家芳江

桂三五郎・河内家芳江は戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。長らく落語芸術協会に所属し、活動を続けていた。滑稽な舞踊を主体とした漫才を得意としていたそうで、大黒踊りなどという珍舞踊が眼目だったと聞く。
東京漫才を彩った人々

椿晃一・橘眞理子

椿晃一・橘眞理子は戦前戦後に活躍した漫才師。晃一がハーモニカ、眞理子が三味線を受け持ち、合奏する芸で人気があったというが、晃一の夭折で大成せずにコンビ解消してしまったようである。
東京漫才を彩った人々

桜川ぴん助・美代鶴

桜川ぴん助・美代鶴は戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。ぴん助は幇間・かっぽれの名人としても知られ、多くの記事や記録を残した。落語芸術協会に所属し、寄席の漫才として人気を集めたのも有名な話である。立川談志の贔屓の漫才師でもあった。
東京漫才を彩った人々

波多野栄一

波多野栄一は戦前・戦後活躍した漫才師。レビュー、喜劇などを経て、漫才に転向。浪速マンマルや三国道雄らとコンビを組んだ。戦後は進駐軍慰問の中で百面相を考案し、落語協会に所属。ナンセンス味あふれる百面相や字噺で人気を集めた。
東京漫才を彩った人々

英主水・川端末子

英主水・川端末子は戦前戦後活躍した夫婦漫才師。主水がバイオリンやトランペットを曲弾する独特の音曲漫才で人気を博したが、主水は病弱で早く亡くなったという。 
東京漫才を彩った人々

石田一雄・花園八重子

石田一雄・八重子とは、戦前から昭和30年代にかけて活躍した漫才師である。落語協会にも所属をしていた。伊志田一雄、花園ヤヱ子という名義もあるが、ここでは一雄・八重子で統一をする。色川武大のエッセイ『ポパイよいずこ』の主人公でもある。
ダラダラ随筆

くしゃおじさんのこと

クシャおじさんとは、アゴの骨をはずし、顔を半分ないしは三分の一に縮めることのできる珍芸で売れた芸人。大正8年12月10日、青森県北津軽郡生まれ。本職は浪曲師。浪曲では桃中軒白雲の芸名を持っていた。浪曲とアゴはずしの特技で長らく水上の温泉余興で活躍した他、妻と東ひょっとこ・おかめの芸名で漫才コンビを組んでいた。
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橘エンジロ・宮川美智子

漫才師というよりも粋人として鳴らした特異な漫才師であった。漫才以外で才能を発揮する○○系芸人の魁と言えよう。エンジロは亀屋忠兵衛のペンネームで多くの都々逸を作成し、都々逸文化の向上と発展に寄与した。長らく「しぐれ吟社」に属し、多くの門弟を育てた事も特筆すべき事項であろう。
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浅田家章吾・雪恵

浅田家章吾・雪恵は戦後活躍した漫才師。二人は夫婦ではなかった。舞踊を主とした音曲漫才を展開し、落語芸術協会系の寄席で長らく活躍した。雪恵は春風亭柳橋の後妻さんとしても有名である。

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